沿革

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三井文庫の閉鎖と再建

財閥解体と所蔵史料の寄託

昭和20年8月15日の敗戦後、三井本社は解散(テーマ49参照)、母体を失った三井文庫は事実上その活動を停止した。昭和21年1月31日、三井本社解散事務の一環として調査部が閉鎖された(三井本社の解散は同年9月30日)。これに伴って調査部分室であった三井文庫は、文庫の建物と敷地を所有していた三井不動産株式会社へ所管が移され、公称も三井文庫となった。疎開させていた史料・図書類は、山梨県の分を昭和20年末に引取り(翌年2月20日に矢崎との契約解除)、昭和21年3月13日には城山荘分も引取った。しかし、今後三井文庫をどのように維持していくか、その方針は定まらず、財団法人案、三井家共同保管案、三井不動産会社の出版事業所案などの諸案が提起された。諸案議論のうえ、同年9月頃には次の方針が確定し、その後、最小限の人数を残して、三井文庫の活動は、事実上休止状態に入った。

一、文庫は一時その機能を停止閉鎖するけれども、記録の保管には万全をはかる。
一、図書は将来の編纂に必要なるものを除き漸次整理する。
一、人員は上記に必要な最低限に減じ、その人件費は別に考慮する。
一、家史并事業史料の蒐集整理は続行する。

昭和24年(1949)頃、文部省は三井文庫の土地・建物の譲受けを、その所有者である三井不動産に働きかけてきた。昭和24年に「史料館設置に関する請願書」が国会で採択され、各地から寄付や購入あるいは寄託によって集めた古文書を収容する書庫が、文部省では必要だったからである。文部省と三井不動産との交渉の結果、戸越の土地と建物については文部省に売却し、三井文庫内の史料・図書などの収蔵品については二棟中の一棟の書庫に収容して文部省に寄託するということで結着した。三井文庫の土地、建物を利用して昭和26年に文部省史料館(現在の国文学研究資料館。平成20年に立川市へ移転)が設置された。

敗戦後の混乱期に、三井文庫所蔵図書の貴重本の多くが、売却等により文庫の手を離れた。昭和25年にカリフォルニア大バークレー校に売却された図書類は、約10万点であり、頁に掲げた特殊コレクションの相当数が含まれた。本居文庫の大半は東京大学が購入し、一部がバークレーに渡った。また、史料の一部が処分された。しかし、三井文庫所蔵史料の中核である三井家の事業に関する史料群は、戦中戦後の困難な時期をのりこえ、その大半が消失・散逸をまぬがれた。

三井文庫再発足の準備

戦後の混乱も一応落ち着いた昭和28年(1953)頃、三井文庫を財団法人として再発足させる話が、三井不動産常務取締役(のち社長)であった江戸英雄から出始めた。この構想が具体化したのは昭和35年のことである。当時三井不動産の取締役・施設部長であった田口純が設立準備を担当することになった。最初の仕事は、文部省史料館に寄託してある三井文庫の史料・図書を返還してもらうことであった。当時、文部省では、文部省大学学術局の学術課長が史料館の館長を兼任していた。学術課長=館長との交渉では、文部省側は当該史料等を永久寄託と受け止めていたため返還に難色が示された。しかし交渉の過程で寄託時の書類などにより事態がはっきりしたため、文部省側も返還やむなしと変っていった。この間、三井関係者は、さまざまな形で関係各方面へ返還実現に向けて働きかけた。

返還の見透しがついた段階で、第1回の三井文庫再建会議が、三井銀行重役会議室で開かれた。昭和35年(1960)9月20日のことである出席者は次の10名であった。

三井銀行会長 佐藤喜一郎
三井信託常務取締役 伊藤興三
三井生命保険庶務部長 森馨
(現)三井物産文書部長 外山宣道
三井船舶社長 進藤孝二

三井鉱山常務取締役 佐藤健二
三井金属鉱業総務部長 播本福一
三井化学工業社長 榎本好文
三井不動産社長 江戸英雄
三井不動産取締役 田口純
(欠席三井造船三井倉庫)

この会議で以下の三井文庫再建基本方針が決定された。

  1. 財団法人組織の三井文庫を設け、文部省に寄託中の「三井文庫」の返還を受ける。
  2. 三井家提供申出の野方墓地の一部300坪の土地に延坪約280坪の書庫と約40坪の事務室・消毒室等を建て、三井文庫の建物とする。
  3. 上記土地300坪の三井文庫への寄付を三井家にお願いする。
  4. 三井文庫の建物及び諸設備に要する創業費用を5000万円とする。
  5. 三井文庫の賛助会社を前記11社のほか、三井農林、北海道炭礦汽船、東洋レーヨン、東洋高圧工業、大正海上火災、日本製鋼所の6社を加えて17社とする。

第2回の三井文庫再建会議が開催されたのは、昭和36年1月30日であった。この会議には17社が参加した。この会議では建築費等の創業費を5000万円から5560万円に増加すること、三井文庫の賛助会社に三越を加えること、が決定され、また三井文庫建設予定地の390坪(三井家所有)を財団法人三井文庫設立の際には三井家が同財団に寄付することを決定した旨報告された。その後、再建会議が何回も開かれ、設立準備が進められていった。この間、「三井文庫」所蔵品の返還交渉が進められ、昭和39年(1967)6月29日に「旧三井文庫収蔵史料等の返還に関する覚書」が文部省史料館長と三井十一家代表三井八郎右衛門との間に取り交され、史料等の返還が確定した。

財団法人三井文庫の設立

返還交渉が終了したあと、三井文庫設立の具体的準備にとりかかった。昭和39年10月26日には三井関係会社全体会議が開催され、賛助会社の新規加入、三井文庫の昭和39年度(昭和39年10月1日~同40年3月31日)、昭和40年度の収支予算、三井文庫所要資金の各社分担額が決定された。新規に三井石油化学工業、三井建設、東洋棉花、三機工業の4社が加わり、賛助会社は次頁表のとおり21社となった。

翌昭和40年4月20日には財団法人三井文庫の設立許可申請書が、文部省に提出された。5月14日に設立許可がおり、21日に財団法人としての設立登記を完了した。昭和40年7月22日には書庫ならびに事務所が竣工し、9月には文部省史料館からの史料等の搬入が始まり、同月中に完了した。ここに財団法人として三井文庫が再出発し、その事業活動が開始されたのである。

三井文庫再発足時の賛助会社(五十音順)

三機工業 三井鉱山
大正海上火災保険 三井信託
東洋高圧工業 三井生命保険
東洋棉花 三井石油化学工業
東洋レーヨン 三井倉庫
日本製鋼所 三井造船
北海道炭礦汽船 三井農林
三井化学工業 (現)三井物産
三井銀行 三井不動産
三井金属鉱業 三越
三井建設