沿革

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「三井家編纂室」時代

近代の修史事業の開始

本格的な修史事業は、明治24年(1891)2月に、三井銀行副長であった西邑乕四郎が、維新後の三井家同族の履歴調査を命じられ、担当者として三井家史料の収集・整理に着手したことから始まる。明治28年5月には「伝記取調掛」が新設された。翌29年には、三井高棟(テーマ38参照)が男爵を授与されたのを記念して『三井家奉公履歴』(明治29年4月刊)が出版された。

三井家編纂室の設置

これまで行われていた断続的な修史事業を恒常化するため、三井家同族会(テーマ38参照)議長三井高棟の発議によって、明治36年10月、三井家同族会事務局内に「三井家々史及事業史編纂方」が設けられた。この編纂方は日本橋駿河町(現在の中央区日本橋室町)の旧三井本館(テーマ38参照)内に一室を設け、「三井家編纂室」と呼称した。これが三井文庫の起源である。同編纂室の顧問として、日本史一般を三上参次(東京帝国大学教授)に、経済史・商業史関係を横井時冬(東京高等商業学校教授)に委嘱した。

編纂室がまず着手した仕事は、東京・京都・大阪・松阪等各地に散在する三井家関係史料の収集・整理と、東京帝大史料編纂掛の『大日本史料』にならった「三井家史料」の編纂であった。

史料収集は、当初三井家遠祖史料の採集に力点を置いたためもあって、遅々として進まなかった。この状況を克服する契機となったのが、明治39年(1906)6月2日、3日にかけて有楽町の三井集会所でおこなわれた三井家第1回史料展覧会であった。三井各家より史料が集められ、その後、史料収集が進展していった。この直前の4月顧問の横井時冬が急逝した。「三井家史料」の編纂は、明治40年1月に新たに編纂員(嘱託)を加え、総勢15名ほどで、三上参次の指導のもと、まず三井十一家各家歴代当主の伝記史料編纂に本格的に取り組んだ。明治42年9月におこなわれる三井高安(テーマ02参照)三百回遠忌に間に合わせるようにこの編纂事務を促進するため、旧三井本館構内に専属の印刷場を設け、編纂物ができ次第印刷に付した。編纂事務打合せのため、毎週金曜日に下協議会を開き、翌土曜日に三上も出席して本協議会が開かれた(大正5年頃まで続く)。

明治42年(1909)9月、予定どおり「第一稿本三井家史料」84冊が完成し、特製本を三井家の祖霊を祀る顕名霊社に奉献し、11月には仮製本のものを三井十一家に配布した。「第一稿本」としたのは編纂途中で三井部内各所より新旧史料多数を引き継いだが、これを利用して稿本を補修することができなかったためである(「第一稿本」は現在三井文庫閲覧室にて公開)。

「三井家史料」の編纂とは別に、三井家の顧問であった井上馨(テーマ37参照)の伝記編纂のため、明治41年10月29日三井家編纂室の分室が、やはり旧三井本館内の一室に設けられた。

「大三井家史」の編纂と「三井家記録文書目録」の作成

「第一稿本」の編纂がひと段落したあと、明治43年2月5日、新たな編纂計画が討議された。そこで「第一稿本」を根本素材として三井家一統の家史(家族史)と商家としての事業史の編纂計画が立てられた。最終的には、家族史と事業史を総合した「大三井家史」を編纂することが目指された。

家史については三上の紹介により、高津鍬三郎に委嘱し、執筆にあたらせた。約5年間の歳月を費やして稿本数冊を得たが、十分な成果が挙がらず、家史は一時中断した。

事業史については、まず三ヵ年計画が立てられ、顧問・三上参次、主任・岡百世以下、「大元方史」(第一部)、「呉服事業史」(第二部)、「両替事業史」(第三部)の編集分担が決められた。

この事業史を作成するために、執筆者が最も不便を感じたのは、目録台帳が不備・不完全なことであった。そこで編纂の事業に先立ち、明治43年(1910)10月以降、一同こぞって記録文書の目録台帳の作成に全力を注いだ。この結果、明治45年3月までに「三井家記録文書目録」の「本号」、「別号」、「続号上巻」の3冊の目録台帳を作成した(目録の区分は引継順による)。この記録文書は三井家同族会事務局京都出張所、同事務局会計課、旧三井呉服店などより数回にわけて引き継がれたものである。

明治45年5月11日、三友倶楽部において、三上参次は明治43年2月からの第一次三ヵ年計画の経過を、出席した同族会議長や同理事らに報告するとともに、将来の計画を述べた。この報告により三井家所蔵記録文書類の重要性が、同族・重役らに認識され、三井文庫建設の下地となった。この報告にもとづき、明治45年9月から第二次三ヵ年計画が開始され(2年間延長され5年となる)、本格的に各事業史の編纂に従事するとともに、同族会事務局京都出張所より再び多量の史料を引き継いだため、「目録」の作成を継続した(大正2年6月に「続号中巻」、同5年6月に「続号下巻」を完成)。これに加えて、大正4年(1915)7月には近世の奉公人の索引付名簿「店々役人名鑑」を作成した(「三井家記録文書目録」および「店々役人名鑑」は、現在三井文庫閲覧室で公開)。

この間、呉服事業史の部は大部分の草稿が作成されたが、両替事業史は基礎的研究より始めたため、各種の年表・図表・相場表等の作成は行われたが、本史の執筆は遅れ、大正4年5月にようやく起稿し、三上の校閲を経て同8年11月に概説編4冊(うち年表1冊)、各史編(慶長~元文年間)5冊(うち付録1冊)と史料編を一応整えた。

大正5年(1916)12月27日、従来の「三井家編纂室」(通称)は「同族会事務局庶務課記録掛」と改組され、所員6名が解雇され、井上侯伝記編纂にあたっていた分室も廃止されて本室に合併され、編纂事業が一時中断された。また専属の印刷場も閉鎖された。組織変更とともに、同年12月に第三次の事業史及家史編纂の三ヵ年計画が立てられた。