これまで駿河町旧三井本館の屋根裏に事務所を構えていた「三井家編纂室」は、大正7年(1918)9月に荏原郡戸越の三井別邸構内に新築した建物に移転した(現東京都品川区豊町。現在は品川区立の公園「文庫の森」となっている)。この建物は大正5年に起工、同7年に竣工した。鉄筋コンクリート3階建の書庫一棟(総面積約314坪)と事務所一棟があり、総工費は約5万2000円であった。大正7年12月3日、これを「三井文庫」と称することに決定し、ここに名実ともに三井文庫の創立をみた。
その後、大正11年9月に従来の書庫の北側に新庫一棟を増築・完成した(工期大正10年2月~11年9月)。この書庫は「文庫の森」内に現存する(左図)。これまで主として保存してきた江戸時代の京都、江戸、大阪各店の記録類・帳簿類に加えて、今後は明治以降の新会社の記録類・帳簿類をも保管する方針をとったためである。大正12年(1923)の関東大震災の際、駿河町の旧三井本館は内部に火が入り、当時そこに本社を置いていた三井合名会社、三井銀行、三井物産、三井鉱山などの保存書類・帳簿などが全焼した。幸い、明治30年代までの記録類・帳簿類の多くは、大震災前に戸越の三井文庫に移されていたため、難をのがれた。大震災後、防火設備の必要を痛感し、大正15年3月にかけて約7万円をかけて、改築をおこなっている。
三井文庫創立後も、三井文庫の管理は三井家同族会事務局がおこなっていた。三井文庫職員は、主任の岡百世を除いて従来と同じ嘱託の地位にあったが、大正8年12月31日付で5名が同族会事務局員となった。その後、昭和2年(1927)2月1日、三井文庫は制度上は三井合名会社調査課(昭和9年6月に調査部に改組)の所属となり、文庫員も調査課所属となった。しかし、三井文庫業務の管理は同族会事務局がおこない、実質的には旧来と変化はなかった。
旧三井文庫・第二書庫(「文庫の森」内に現存)早期の鉄筋コンクリート建築として、建築史上も重要な建物である。関東大震災にも耐え、さらに防火のための補強が加えられた。書庫内の構造など、現在の三井文庫の設計にも踏襲されている部分がある(写真提供:三友新聞社)。
新築移転後、三井文庫はその事業として、従来からの各事業史の編纂の継続などに加え、記録文書類の保管・整理、両替店関係旧帳簿類の組織的分類整理などをおこなった。
各事業史の進捗状況をみると、大元方史は「大元方史料」など本史の素材となる編纂物が脱稿され、本史の編纂が継続しておこなわれた。「大元方史」(未定稿)の4冊の草稿がまとめられたのは昭和10年代も中頃になってからである。大元方成立までの前史(2冊)と本史(2冊)とからなり、本史は元文2年(1737)までで終っている。
呉服事業史については新たな編纂方針を立て、旧稿全部の改修に着手した。全部で16冊に及ぶ草稿(未定稿)が作成されたとされるが、今日に伝わるのはその一部である。
両替事業史は、大正8年11月に脱稿した概説編、各史編を全面的に書き換えることになり、その執筆準備が本格的に開始された。同時に記録文書の「受付番号」では研究上及び保管事務上も甚だ不便であるため、まず両替店関係から統一的整理に着手し、12年間かけて次の2種類の目録草稿を試作した。①両替店決算勘定目録帳簿分類書目(全4冊、付表類)、②両替店古帳簿類別目録(全5巻、付表類)である。こうした基礎作業のうえに膨大な編纂史料が準備された。しかし、旧稿を全面的に改稿するはずであった本史そのものの草稿は残存していない。この間、職員の協力のもと、三井高維著『両替年代記』(1冊、テーマ16参照)、『両替年代記関鍵』(2冊)が昭和7、8年(1932、33)に岩波書店より刊行された。
三井家史については、執筆が進められ、数度の改稿を経て、昭和13年(1938)10月に創業より北家二代・高平までの草稿(未定稿)を完了した。
以上のような「大三井史」の構想にもとづく研究編纂事業のほか、三井文庫では三井家および三井各社の依頼による調査、史料蒐集、史料展示会、別途編纂事業などがおこなわれた。
三井文庫の所蔵史料は非公開を原則としていたが、大正9年(1920)6月と同11年11月に「三井家奉公資料陳列会」が宮内省臨時帝室編修局明治天皇御伝記編纂掛のために開催され、昭和10年(1935)5月12日には史学会(東大史料編纂所に事務局)大会に合わせ、同会の要望を入れて蒐集コレクションを中心とした「三井家主催展覧会」を開催した。
別途編纂事業としては、中断していた井上馨伝記編纂を没後15年の昭和5年6月に再開し、丸ノ内昭和ビル内に「井上侯伝記編纂会」を設置し、三上参次が顧問となり、三井文庫からは主任の岡百世が参加した。昭和7年7月には事務所を麻布の三井集会所内に移転し、同9年9月に『世外井上公伝』を出版した。同11年7月に編纂史料の全部を編纂会より三井文庫が引き継いだ。このほか新たな編纂業務として、三井合名会社考査課から使用人教育のための簡明な三井の歴史読本作成が提案され、昭和10年3月11日に三友倶楽部において下相談がおこなわれた。三井各社から課長など数名と文庫から3名が出席した。
三井文庫では、この間、以上のほか学術的価値のある諸文献の購入にも意を注ぎ、各種の貴重な文献コレクションを収集した。その主なコレクションには、つぎのようなものがあった。本居宣長・大平手稿本を含む本居文庫旧蔵本、土肥慶蔵博士(東京帝国大学医学部教授、雅号鶚軒)旧蔵の古医書・哲学・言語・漢詩文集など鶚軒文庫本、朝鮮法制関係古刊本など浅見倫太郎博士収集本、今関天彭氏収集本、宋・元版史書類など小川琢治博士旧蔵本、本邦古地図并地誌類など三井高堅氏収集本。いずれも容易に入手し難い稀覯本を多数含んでおり、文化史的見地からも貴重であった。しかし、これらの特殊コレクションの大半は、敗戦後の混乱期にその他の図書類とともに売却されている。
昭和14、15年は、三井文庫にとって大きな転換の年となった。これまで三井文庫の支柱となって勤務してきた職員3人が停年制(昭和11年より全三井関係事業で実施)によって、昭和14年4月30日付で退職した。6月7日には三井文庫活動の指針を与えていた顧問の三上参次が死去した。事業活動の担い手は新たな世代へ移っていった。当時の三井文庫の人員構成は、職員9名、雇員14名、嘱託1名であり(昭和14年8月)、昭和初年(4年10月)の嘱託6名、雇員5名の人員より、戦時下であるにもかかわらずかなり増大していた。
この頃になると、史料と図書の合計で25万冊にも達した。このため三井文庫では昭和14年5月に書庫増築が急務であるとして、戸越の三井別邸内に間口5間、奥行7間の2階建書庫(各階35坪)の設計案を作成して増築を要請した。増築が実現し、三井文庫分室として開設したのは、少しあとの昭和18年(1943)1月15日である。この間に三井文庫の所属は、三井合名会社が三井物産と合併し、新統轄機関として三井総元方が設立されたのに伴い(テーマ48参照)、昭和15年8月26日付で三井総元方所属となった。さらに昭和19年3月の三井本社設立により、三井本社所属となり「本社調査部戸越分室」が正式名称となった。この頃には、職員3名のほか、嘱託2人・雇員6人、準職員5人の計16名が三井文庫の事業に携わっていた。
従来からの「大三井史」の編纂を、昭和15年度には「家制史」と「事業史」に二分し、4名で担当することになった。このほか、この年度から「御東幸御用関係記録」の研究・出版計画が立案・開始された。既刊の「店々役人名鑑」(江戸~明治4年まで)の続篇(明治中期まで)の編纂にも着手した。昭和18年度には北家初代・高利(宗寿)の「高利史料」の増訂・印刷、「宗寿大居士行状」の印刷を行なった。この間、益田孝伝記編纂、『三井読本』(亜細亜書房、昭和18年刊)の援助もおこなった。昭和17年には刊行準備を進めていた『御東幸御用記録』の全三巻のうち一巻が、三井高陽編、国際交通文化協会(会長三井高陽)刊として発行された。
三井本社へ所属替になると、業務規定によって「三井関係会社事業史ノ編纂並ニ関係史料ノ蒐集保管ニ関スルコト」が職掌として規定され、関係会社の史料の蒐集と事業史編纂に力点が移り、従来継続してきた大元方史、呉服事業史、両替事業史の改修・増訂などの作業は一時中止された。これらは結局復活することなく、「大三井史」の構想は完成しなかった。これに代って、当面関係会社事業史編纂の第一弾として「三井本社沿革史」の編纂が開始された(これは「三井本社史」稿本とは別で、完成を見ずに終った)。
以上の編纂作業とは別に、この間、依頼を受けてのさまざまな調査、三井家行事の調査・準備、三井家冠婚葬祭関係の準備、史料整理などの業務を行なっていた。
昭和18年(1943)年頃には、戦局は大きく傾き、本土空襲が懸念される事態となった。このため、昭和18年10月1日を第1回として数回にわたり古記録類の重要な部分を、神奈川県の大磯にある北家の城山荘へ疎開した。
昭和19年11月24日午後0時45分頃、戸越の分室(三井文庫)構内に爆弾が落下し、直径14m、深さ4mの穴をあけ、事務室、社宅等に被害をもたらした。幸いにも、この時の被弾では書庫は無傷で、記録類等は無事だった。しかし、翌昭和20年5月24日午前一時半の空襲は多大な損害をもたらした。十数個の焼夷弾が降り注ぎ、守衛社宅約10坪が全焼しただけでなく、土蔵一棟に命中して107坪の土蔵が全焼し、そこに収蔵されていた記録類も焼失してしまった。未整理記録書類5梱、越後屋看板類22枚、寄託図書類、三井物産や三井銀行の旧帳簿類、江戸時代の和算書156冊などの貴重な史料が灰燼に帰した。
三井文庫では5月24日の被弾の直前に、史料類・図書類の疎開先として山梨県東山梨郡神金村の矢崎邦之の土蔵を借受け、分室設置を予定していた。同村は中央線の塩山と勝沼の中間、塩山より北東6kmの距離にあり、大菩薩峠の登山口にあたる。被弾後これ以上の史料、図書類の損害を防ぐため、早急に戸越にある残存史料・図書全部の同村への疎開を決定し、昭和20年(1945)6月18日付で、文部省教学局に対し「三井文庫蔵書疎開陳情書」を提出し、蔵書の価値の重要性を訴え、輸送の便を計るように依頼した。これらの史料・図書類が、すべて山梨県に疎開された。