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33 三池炭鉱の払下げ

官営期の三池炭鉱

伝承によれば、三池における石炭の歴史は古く、15世紀半ばまでさかのぼる。農夫の伝治左衛門が、稲荷とうか山で焚き火をしたところ、黒い岩に燃え移り、「燃ゆる石」が発見されたという。その後、江戸時代中後期に、柳川藩の家老小野春信が平野山で石炭採掘をはじめ、三池藩が稲荷山、生山を開坑した。明治6年(1873)、新政府はそれら三つの石炭山を官有とした。官営三池鉱山は、石炭市場が拡大していくなかで、洋式技術の導入をすすめ、飛躍的に発展していく。年間出炭量は、明治6年の3万トンから明治11年の約10万トンにまで増大した。

三井物産による三池炭輸出

官営時代の三池で採掘された石炭(三池炭)は、製塩用や汽船の燃料用として国内で販売されていた。貿易赤字に悩まされていた政府は、外貨獲得を目的に、三池炭を海外へ輸出することを企図し、その取り扱いを創立準備中の三井物産(→30 三井物産の創立)に委ねようとした。三井物産が開業する一ヶ月ほど前の明治9年6月、益田孝は三池炭の海外輸出許可を政府へ出願するとともに、伊藤博文の薦めに可を政府へ出願するとともに、伊藤博文の薦めにより、三池鉱山事務主任(当時)の小林秀知と面会している。同年9月、三井物産と政府との間に「三池石炭売捌約定書みいけせきたんうりさばきやくじょうしょ」が締結され、三井物産による三池炭の一手販売が開始された。明治17年(1884)には、上海や香港での販売高が10万トンを超え、三池炭の約6割を海外輸出が占めるようになった。

官営三池鉱山局記念撮影
官営三池鉱山局記念撮影

この写真は、明治22年(1889)1月、官営三池鉱山が三井組に引き継がれる際、三池鉱山局事務所の玄関で撮影されたもの。未刊に終わった「三井鉱山五十年史」が製作される過程でまとめられた「写真集」に収められている。
中段左から7人目が、三池鉱山局で事業計画を主導していた事務長の小林秀知。8人目が、明治17年(1884)に工部省御用掛に任命されて三池鉱山局勤務となり、その2年後に勝立かったち坑兼勤・三池鉱山局工業課長となっていた団琢磨図を見る。団は勝立坑内の湧水対策のために、明治20年(1887)から欧米の炭鉱事情を調査しており、三井への払下げ決定を帰国途上のニューヨークで耳にした。

三池炭鉱の落札

明治21年(1888)になると、緊縮財政をすすめる政府は、三池鉱山を最低400万円以の競争入札で払い下げる決定をくだす。益田孝は、三池炭の輸出とともに海外支店網を広げた三井物産にとって、落札は不可欠だと三井銀行の副長西邑乕四郎にしむらとらしろうを説き、同行より100万円を借り受けて入札に臨んだ。開札の結果は、佐々木八郎455万5000円、川崎儀三郎455万2700円、加藤総右衛門427万5000円、三井武之助・養之助410万円。

三井は4番札であったが、1番札の佐々木、3番札の加藤も、益田が落札を確実なものにするために用意した代理人であった。競争者がいなければ、高値の札から順に棄権させ、最低価格で落札しようとしていた。しかし、益田が2番札の川崎に辞退するよう交渉するも失敗し、結局、2300円という僅差で佐々木(三井)が落札することになる。川崎は三菱(岩崎)の代理人であるというのが、当時からの世評であった。のちに益田は、松方正義蔵相に「三池も佐々木八郎でとれてよかったノ―、何も云ふなよ、あのままで受けておけ」と言われ、「ハイ承知しました」と1番札での落札に納得したと回顧している。また、「455万5000円の内に団も入っている」と益田が松方に申し入れ、団琢磨を残すよう働きかけた、という話も現在までながく語り継がれている。

官営期の馬車鉄道(明治11年)
官営期の馬車鉄道(明治11年)

三井に払い下げられた後、明治24年(1891)には、宮浦坑・七浦坑と積出地(横須浜)を結ぶ専用鉄道が敷設される。

三池炭礦社から三井鉱山へ

落札者の佐々木から全権を委任された三井組は、明治22年(1889)1月3日に三池鉱山の払下げを受け、「三池炭礦社」を創立した。その最高責任者である三池炭礦社事務長に団を迎え入れた図を見る。その後、三池炭礦社は明治25年に三井鉱山合資会社、翌年に三井鉱山合名会社となり、明治42年(1909)に三井合名会社鉱山部を経て、同44年に三井鉱山株式会社となった。三井三池炭鉱は、日本屈指の出炭量を誇り、「三井のドル箱」(→34 三井のドル箱)に成長する。第二次世界大戦後、エネルギー転換のなかでも採掘を続けたが、平成9年(1997)に閉山を迎えた。

団琢磨(一八五八–一九三二)と辞令
団琢磨(1858-1932)と辞令

14歳のときに黒田家より海外留学生に選抜されて渡米。マサチューセッツ工科大学(MIT)に学び、鉱山学科を卒業。帰国後、大阪専門学校、東京大学助教授を経て工部省入り。明治22年、「三池炭礦社」の事務長となる。月俸150円、賞与50円という破格の待遇だった(当時の総理大臣の年俸は約1万円)。三池炭鉱では、技術者・経営者としての能力を余すところなく発揮し、その後、三井合名会社理事長として三井の事業を主導していく。昭和7年(1932)、血盟団員に襲われ、75歳でその生涯をとじた(→45 財閥の「転向」)。

 

32 三井物産、世界への展開
34 三井のドル箱