12 呉服店1 事業の構造と推移
三都と商品流通
18世紀に入る頃から、京都・江戸・大坂(三都)に商品が集まるようになっていた。京都は原料や半完成品の集荷地・加工地として、江戸は大都市の消費に応えるための商品の入荷地として、大坂は全国の多種多様な商品の集散地として、全国の流通網の結節点となっていた。
この三都を頂点とする商品流通を支えたのは都市の問屋だった。都市問屋は、生産資金を生産者に貸し付けて商品を生産させ、多くの職人を雇い入れて加工を行わせ、完成品を大都市に送って販売していた。都市問屋は江戸時代の商品流通の要であり、その流通網は全国を覆っていた。
また、あらゆる問屋は同業者の仲間を作っていた。仲間を組んだ問屋は結束して、幕府公認のもと仲間以外の問屋を排除し、仕入・輸送から価格設定にいたるまで商品流通を支配していた。
越後屋の店舗網
三井の呉服部門である三井越後屋(以下、越後屋)は小売店舗として一般に知られているが、絹織物(呉服)を取り扱う呉服問屋でもあった。越後屋では京都にある京本店で絹織物を仕入れて加工を行い、江戸の営業店である江戸本店・向店・芝口店と、大坂の大坂本店に送って販売していた。越後屋の営業店の中でも江戸本店は、敷地面積、売上額、奉公人数等で最大規模を誇っていた。京都には西陣織を京本店に供給する上之店、紅染加工を担う紅店、御用呉服を扱う勘定場があり、江戸には糸物屋である糸見世などの店舗もあった。これら呉服部門は「本店一巻」と呼ばれている。江戸・大坂にある「本店」と呼ばれている店は、各地の営業の中心である本店ではなく、呉服部門の一営業店なのである。
京本店は仕入を行う店であると同時に、これらの八つにおよぶ店舗の統轄を行っていた。江戸駿河町の江戸本店が越後屋の販売店として広く知られているが、京本店が呉服部門の指揮系統の中心であった。
越後屋は、京都や江戸で呉服問屋仲間や木綿問屋仲間に加入していた。ここには大丸、恵比須屋、白木屋なども加わっていた(→14 呉服店3 競争と販売)。
越後屋の売上
ここで、呉服店である越後屋ならではの記録として呉服部門全体の売上額をみてみよう。享保14年(1729)から文久元年(1861)まで、約130年にわたる商品売上額をまとめた(→本店一巻の売上額)。大きく二つの特徴を抜き出した。
①呉服部門の売上額が増加する。延享2年(1745)は幕末のインフレ期を除いて、越後屋の売上額のピークだといわれている。たとえば江戸本店の売上額は銀1万3800貫目で、全期間を通じて最高値である。江戸向店や大坂本店の売上額も多い。越後屋の長い歴史の中で、比較的早い段階で最高潮に達していた。これは元文年間の貨幣改鋳(→18 両替店3 領主たち)の物価上昇に乗じ、大安売りを宣伝して大きな収益をあげたことなどによる。これ以降、売上額は減少するものの、天保年間(1830年代)までは横ばいを続けている。
②売上額が落ち込んでいる。これは天保の改革の奢侈禁止令によって豪華な呉服の売れ行きが低迷したことなどによる。
この後、幕末のインフレで額面上の売上額は激増するが、実質をともなわないものであった。
なお支出についてみてみると、①の時期以降、掛売(ツケ)の増加で未回収金が累積し、火事で何度も店舗を焼失し(→21 変わりゆく社会、三井の苦悩)、莫大な再建費がかかるなど、越後屋は経営難に陥っていた。特に②の天保年間以降の越後屋は苦難の時代であった。
京・江戸・大坂の越後屋を描いた掛軸。一幅に一店ずつ描いており、右の軸から京、江戸、大坂である。作者や作成年は不詳だが19世紀前半のものと考えられている。同じ時期の京・江戸・大坂の店を同時に描いた絵画は珍しい。京都の店は統轄店かつ仕入店ゆえに店頭はおとなしく、逆に販売店の江戸・大坂は暖簾を出すなど、派手な店構えである。
京本店の重役が記録していた業務日誌の一つ。元文2年(1737)から明治4年(1871)まで約140年の記録が28分冊で残っている。奉公人の動向や、各営業店の経営の状況や火事の罹災状況など様々な内容が日付順に記されている。京本店には「永書」というシリーズの日誌もあり、これらは呉服部門の動きを追える基礎史料である。
享保14年(1729)~文久元年(1861)