31 初期三井物産の経営
初期の取り扱い商品
創業当初の三井物産では、政府米の輸出をはじめとする米穀取引、西南戦争の軍需、政府から無利息資金を得ての荷為替業務など政府関係の商売が大きな比率をしめていた。しかし、政府関係の商売は、横浜正金銀行の創立(荷為替業務を失う)、千住の官営製絨工場創立(絨の輸入減少)などもあり、次第に減少して行った。
明治10年代後半には、石炭(三池炭の輸出と国内での販売)が中心的な商品となってゆく。石炭輸送のために、初期から汽船も所有していた。企業勃興期(明治19年以降)を迎えると、綿紡績機(→プラット社の紡績機)などの機械輸入が次第に増加してゆき、棉花取引も成長をはじめる。明治20年代末には、石炭・機械・棉花などが基盤的商品として定着する。
損益の推移
創立当初から明治13年(1880)まで、三井物産は順調に利益をあげていた。明治14年(1881)には、松方デフレによる打撃を受け、内国米穀売買の失敗に、海外輸出品の代金回収不調なども重なり、10万円を超える巨額の損失を計上した。また明治10年代には、ロンドン支店への初期投資による損失があり、企業勃興期には、鉱山業や北海道漁業で損失を出している。こうした損失は、石炭取り扱いでの利益や、船舶運用の利益などでカバーをしていたことが、近年の研究で明らかになっている。
初期の海外支店
三井物産の最初の海外支店は、明治10年(1877)に開設された上海支店であった。以後、明治11年に香港とパリ、12年にニューヨークとロンドンに海外支店が開設された。しかし、このうち、香港支店は明治14年(1881)に、ニューヨーク支店は15年に、パリ支店は21年(1888)に、それぞれ閉店されている。海外貿易の基盤が未確立な状況では、支店を維持することができなかったのである。
ロンドン支店の確立
そうした中で、ロンドン支店は、初期の困難を乗り越えて定着した。ロンドンでの三井物産の業務は、明治10年(1877)にロバート・アーウィンを代理店とすることから始まった。明治12年(1879)に、笹瀬元明を派遣し、日本人店員による支店を開設した。初期のロンドン支店は、多額の損失を出していた。ロンドン支店が収益をげるようになるのは、明治16年(1883)以降のことである。明治10年代後半には、政府米輸出の取扱での利益が大きく、明治20年代に入ると日本への機械輸入などで利益をあげられるようになった。その間に、貿易業務に不可欠の海運や保険に関するノウハウを蓄積し、またロンドンでの信用も積み重ね、貿易商社としての基盤が形成された。
『中外物価新報』
三井物産の本業ではないが、初期三井物産のユニークな活動に、『中外物価新報』の発行がある。明治9年(1876)12月2日、『中外物価新報』が三井物産によって創刊された。内務省勧商局長河瀬秀治の勧めを受けた益田孝がその創刊を決意し、編集人には河瀬の紹介により勧商局より太田原則孝を迎え、また新聞の印刷・配達などの実務面では『東京日日新聞』を発行していた日報社社長福地源一郎の支援を得ての刊行であった。明治15年(1882)に、匿名組合「商況社」が設立され発行元が同社に移されるまで、三井物産内の中外物価新報局が同紙を発行した。『中外物価新報』は、その後『中外商業新報』と紙名を変更し、今日の『日本経済新聞』に繋がっている。
明治24年(1891)10月、三井の組織改革・事業整理が進められる過程で、益田孝が作成した文書である。明治23年(1890)中の三井物産の商品ごとの取扱高を詳述して営業の状況を明らかにしている。将来の営業方針については、組織改革によって資本の融通が充分となれば、取り扱い商品の種類はなるべく減らして、「需要ノ多クシテ販途ノ広キモノ」を選ぶべきであるとしている。具体的には、石炭、棉花、織物、輸出米、「外国ニ関スル雑業」(ロンドン支店から輸入する機械・小間物など)、内地米、海産物(魚肥・魚油の類)、生糸及び製茶(横浜での売込)の8つの商売を上げて、これらは、従来の経験から、最も安全有利なものであり、今後の営業の方針をこれらの商売に定めれば、相当の利益を収め、堅固な営業が可能であると述べている。
三井物産は、英国の紡績機械メーカー・プラット社と代理店契約を結び、企業勃興期に簇生する紡績会社に大量の紡績機械を販売した。写真は、大日本紡績平野工場(元平野紡績)で稼働する1888年プラット社製の紡績機。
先収会社(→30 三井物産の創立)では、洋式帳簿を用いて複式簿記による会計記帳がなされていた。三井物産もそれを受け継いで、洋式帳簿を用いた。三井文庫には、創業から明治後半までの、「LEDGER」「JOURNAL」「CASHBOOK」が保存されている。当時の日本では、洋式帳簿は製造されておらず、これらの帳簿は、ロンドンから取り寄せられていた。