10 大元方1 一族と店舗の統轄
大元方とは
三井は呉服部門(「本店一巻」)と金融部門(「両替店一巻」)の二つの事業部門をもっていた。また三井同苗は6本家、5連家からなる11家で構成されていた(→06 高利の子供たち)。この三井同苗が両事業部門を共有する原則になっていた。これを「身上一致」という。多数の家で資産を共有し、複数業種・多数店舗を維持するためには、事業と三井同苗を統一的に支配するしくみが必要だった。そのための機関が京都におかれた大元方であった。(→近世三井の事業構造図)
大元方では月に2回、会合(「寄合」)を開催し、数名の三井同苗と重役ら(元方掛という)の話し合いによって、様々な事項を決定していた。
営業店との関係
大元方は呉服部門と金融部門を資金的に支配していた。大元方は運転資金をそれぞれの部門に貸し、それぞれの部門は指定された利子率に応じて利益金を上納する原則であった。また3年に一度総決算をし、全利益金の内、10分の1を奉公人へのボーナス(褒美銀)として配分。残りを全て大元方に集約する原則だった(→11 大元方2 利益の集約)。
寄合の議題には奉公人や店に関するものが多い。奉公人については重役人事、隠居・相続願い、別家(→19 奉公人1 昇進と報酬、20 奉公人2 生活と管理)の借金願いなどが、営業店についてはルールの制定や改定、各営業店との金銀貸借、利益金上納などが話し合われていた。
三井同苗との関係
三井同苗も大元方による統制を受けていた。三井11家には「宗竺遺書」(→09 家訓「宗竺遺書」)の規定に従って、家産に対する権利の比率が設定されていた。冒頭で紹介したように、三井同苗は配分比率に応じた生活費の支給を受け、他にも隠居料、子女の必要経費、屋敷の建築費、婚礼費用、旅費などを受給していた。寄合ではこれらの支給の判断や、隠居願いなどについても話し合われた。
「安永の持分け」
三井は「身上一致」を原則としていたが、一時期、その原則を崩したことがあった。安永3年(1774)、本店・両替店の営業不振や、不良資産の増加、同苗借財の累積、同苗の不和等が重なり、事業部門を本店一巻、両替店一巻、松坂店の3グループに分け、三井11家も三つのグループを形成して、持ち分けることになった(「安永の持分け」。大元方も三井同苗と事業を統轄する機能を一時的に失う。三井が再び一致したのは24年後の寛政9年(1797)だった(「寛政一致」)。しかしこの後、会計制度上は完全に旧に復することはなく、呉服店部門と金融部門それぞれの自立性は高まっていった。
三井同苗の生活費や冠婚葬祭の費用、屋敷の建築費をはじめ、重役手代の給与や退職金などをとりきめたもの。享保7年(1722)に一度作成され、寛保4年(=延享元年、1744)に改定された。この史料は寛保4年のものである。表紙の状態から使い込まれた様子が見て取れる。内容も追加修正を記した貼紙の付いている項目が多い(右写真)。景気の変動など、現実の状況に対応して支給額や項目を変更しており、部分的な改正を繰り返しながら使われていたことがわかる。
大元方定式(おおもとかたじょうしき)
記事について
三井同苗の生活費(賄料)の金額を定めた部分で、「宗竺遺書」(→09 家訓「宗竺遺書」)の配分比率に従って決められている。ここでは京都油小路の八郎右衛門(北家4代・高美)が銀139貫目余、中立売の元八(伊皿子家2代・高勝)が銀67貫目余、新町の三郎助(新町家3代・高弥)が銀60貫目余となっている。三井同苗に支給される費用を管理していたのは「大元方」という統轄機関だった。