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03 江戸進出

高利出店す

松坂で資金をたくわえていた高利が、本格的に江戸に進出し、呉服の販売をはじめたのは延宝元年(1673)、52歳のときであった。

高利が開いた店は、本町ほんちょう一丁目(現・中央区日本橋本石町)、間口9尺(約2.7m)のささやかなものであった。しかし構想は大きく、商品の仕入れも直接行おうと考え、同時に仕入店を京都に置き、21歳の長男・高平たかひらを置いて専従させた。江戸には、20歳の次男・高富たかとみと、かねて目を付け、兄の店に預けてあった理右衛門らの奉公人を配し、みずからは松坂を拠点に、事業を指揮した。

江戸と京

江戸は中世には小さな村であったが、天下を制した徳川家の本拠地として急激に発展し、多数の幕臣、全国の大名の妻子・家臣が住んだ。また参勤交代の制により、大名たちも定期的に江戸に滞在した。彼らの生活を支えるため、商工業者の移住も進み、膨大な物資が江戸へはこばれる体制もできあがりつつあった。江戸は17世紀を通じ、世界最大級の巨大都市へと成長していくのである。高利が店を開いた本町一丁目は、徳川家康が最初に開発した由緒ある町で、古くから京都・大坂の商人が出店しており、高利の親類の店もあった。

後にこのころの江戸について、高利の3男・高治たかはるは著書「商売記」(→04 現金掛け値なし)で、商いの規模は小さいが、利益は大きかったと振り返っている。

いっぽう京都は、古代以来の政治・経済の中心で、高利の時代にも、手工業や金融においては依然として最高の地であった。呉服は様々な原料と複雑な工程からなる、当時としては最高級の工業製品で、京都が一番の産地であった。

駿河町移転

高利の事業は、当初から大きな成功をおさめたが、同業者たちの激しい反発をまねいた。「商売記」には、便所を高利の店の台所に向けて作られる、という嫌がらせを受けたことが記されている。

このため高利は、天和3年(1683)、前年の大火事をきっかけに、店を駿河町するがちょう(現・中央区日本橋室町)に移した(→脇田藤右衛門扣)。いざ開店すると、客が詰めかけて大群衆となり、移転は大成功であった。「商売記」は、「千里の野に虎を放ったような勢いであった」と記す。この地が、現在にいたるまで、三井の事業の拠点となった(→駿河町越後屋正月風景図)。

こうした高利の成功をもたらしたのは、数々の商売上の工夫であり、新商法であった。

 

諸法度集(しょはっとしゅう)
諸法度集(しょはっとしゅう)

高利が、江戸の本町一丁目に初めて自分の店を出した際に、伊勢松坂で作成して交付した、店の規則。総領家である北家に伝わった。
延宝元年(1673)8月10日付で出されており、江戸出店の時期を示す根拠ともなる史料である。延宝改元は9月のことで、店の一同で署名して高利に送るために江戸で清書される際、元号を書き改めたと推測されている。
名称に「集」とあるのは、その後3年間で2回出された規則を合わせて収録しているためである。武士相手の掛売り禁止、各種の帳面の規程、住み込みである奉公人たちの生活全般など、細かな規則が記され、出店直後の事業の様子について知ることができる。

諸法度集(しょはっとしゅう)

江戸進出

記事について

ここで紹介するのは、末尾の部分である。「延宝元年丑八月十日」との日付、「勢州 三井八郎兵衛」と松坂にいる高利の署名があり、宛先は「江戸壱丁目棚(店)惣中」、つまり江戸の本町一丁目に出した店の全従業員である。続いて、「仕(支)配人」(重役)以下すべての奉公人が、申し渡された内容について承知したと記され、全員の署名と花押が記される。

連署しているのは、九郎兵衛、理右衛門、治右衛門、新兵衛(之重)、惣兵衛(貴総)、重右衛門、重兵衛、吉兵衛、太郎兵衛、左兵衛、嘉兵衛、六兵衛、勘兵衛、三太郎、三十郎、の計15名。

後世には巨大な存在となる三井だが、初期の規模はこのくらいであった。

三井の暖簾印「丸に井桁三(いげたさん)」
三井の暖簾印「丸に井桁三いげたさん

成功を収めた高利は、独自の暖簾印を使うようになった。「(江戸の)丸の内に三井」の意で、高利がみた夢のお告げによったと伝えられる。古くは「井筒に三」と呼んでいた。上は、元文元年(1736)の引札ひきふだ(→14 呉服店3競争と販売)用の版木から起こした形。

脇田藤右衛門扣(わきたとうえもんひかえ)
脇田藤右衛門扣わきたとうえもんひかえ

初期の江戸の重役であった脇田が、享保13年(1728)に統轄機関である「大元方」(→10 大元方1 一族と店舗の統轄)の要請に応えて提出した、江戸の諸店の沿革。創業期についての貴重な証言である。図版は、駿河町移転について記した箇所。3行目に「支配人 藤右衛門」とある。

駿河町越後屋正月風景図
駿河町越後屋正月風景図

19世紀、作者不詳。後に左右両側に三井の店が立ち並んだ駿河町は、江戸の名所の一つとなり、この図のように奥に富士山と江戸城を配する構図で好んで描かれた。現在の右側は三井本館、左側は日本橋三越本店。

 

02 松坂の高利
04 「現金掛け値なし」