14 呉服店3 競争と販売
越後屋の宣伝
三井の呉服部門である越後屋(以下、越後屋)のモットーである「店前売」と「現金掛け値なし」の商法を繁昌させるためには、店頭への来客を増やす必要があった。越後屋では客を呼び込む宣伝手段のひとつとして引札を利用している(→大坂本店見世開配札)。また、越後屋は暖簾印と番号の入った傘を客に貸し出していたという。「俄雨ふるまい傘を三井出し」などと詠まれたように、川柳などを通じて越後屋の貸傘のエピソードも流布していた。奉公人は暖簾印の入った風呂敷を背負って屋敷回りをしていたらしく、いくつかの絵画にも描かれている(→暖簾印入の風呂敷を担いだ奉公人)。立派な店構えを描いた錦絵も多数作られている。傘や風呂敷はそれ自体宣伝広告のようなものだが、それを描いた小説・川柳・絵画もまた宣伝の一種となっていた。
「店前売」のライバルたち
江戸時代の後半になると、他の呉服店も「現金掛け値なし」の商法と「店前売」の販売スタイルに追随していた。江戸では①大丸、②白木屋、③布袋屋、④亀屋、⑤恵比須屋、⑥岩城桝屋、⑦いとう松坂屋など、多くの巨大な呉服店が「店前売」にしのぎを削っていた。(→江戸の呉服店略地図)
激しい競争
越後屋の歴史は他店との競争の歴史でもあった。早くも宝永年間(1700年代)には、大黒屋と安売り競争に突入。この時は、越後屋が薄利多売に徹して大黒屋を圧倒した。宝暦年間(1750年代)には尾張町(現銀座六丁目付近)にある恵比須屋・亀屋の新装開店をきっかけに越後屋と安売り競争となり、越後屋は芝口(現新橋一丁目付近)に芝口店を設けて対応し、この状況を切り抜けた。そして寛政年間には、奢侈禁止令をきっかけに通旅籠町店(現大伝馬町一〇丁目付近)の大丸が木綿の店前売を積極的に進め、越後屋をはじめとする他の呉服店の脅威となった。折しも、越後屋は経営不振の時期であり、店の経営改革にも乗り出さざるを得なくなった。このように、越後屋は他の呉服店との激しい競争にさらされていたのであり、様々な工夫をこらして来客を増やそうとしていたのである。
配札は一般的には引札と呼ばれており、現在の宣伝広告(チラシ)にあたる。天保8年(1837)2月19日、大坂高麗橋一丁目にあった大坂本店は大塩平八郎の乱で焼失した。大坂本店ではすぐに仮の小家を建てて翌月8日には営業を再開。天保11年7月には新しい建物も概ね完成し、11月8日に大々的に店開き(開店セール)を挙行した。この引札はその際発行されたものである。約70万枚の引札を刷り、うち12万枚余を大坂市中の裏屋にいたるまで手代が配って回り、大坂以外の遠隔地にも船乗りに渡すなどして配ったという。大坂市外への配布は見世開の後に配布したのか、若干文言を変えたものを用意している。天和3年(1683)の駿河町移転(→03 江戸進出)の際にも引札を配ったというが、江戸・大坂を問わず、越後屋では店開きや大安売りを行う際には引札を刷って大量に配っていたのである。
記事について
この引札では、挨拶文のあとに、おかげさまで店を再建したこと、近日中に店開きをして、商品も品質を吟味して格別安く提供すること、これからも今まで通りご用命を請うこと、店開きを懇意の方々にも知らせてほしいことを記し、最後に開店日を記載している。
朱書きの部分から、この引札にはもともと開店日を記載しておらず、事前に刷っておいて、開店日が決まり次第、日取りを押印するようにしていたことがわかる。
『画本東都遊』巻二に収録。享和2年(1802)、葛飾北斎画。三囲神社の挿絵の中に描かれている。三囲神社は向島(現墨田区)にある神社で、三井との縁も深い。