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50 敗戦からの復興  — 三井グループ再結集へ

戦後の再出発

戦後、日本企業は、空襲による工場設備の破壊、船舶の喪失、外地資産の消滅、旧幹部の経済界からの追放など、厳しい状況のなかで再出発した。また、戦時補償も打ち切られ、多くの企業が、企業再建整備法にもとづいて再建の道を模索していった。三井系企業の場合は、親会社である三井本社の解散という新たな環境のもと、企業再建をはかることになった。

三井物産の解散

そうした中で、最も過酷な事態に遭遇したのが、三井物産であった。GHQは財閥本社ならびに持株会社の解体にとどまらず(→49 三井財閥の解体)、さらに、独占的と認定した企業体の解体を進めようとした。その先駆けとして、徹底的な措置がとられたのが三井物産と三菱商事であった。両社は、昭和22年(1947)7月、GHQから即時解散の指令を受け解散した。両社の支店長クラス以上の社員には、共同して新会社を起こすことが禁じられ、また、同じ会社(新設、既設を問わず)に所属することについても厳しい制限が課せられた。そのため、三井物産の元社員は約2百数十社、三菱商事の元社員は約百数十社の新しい会社を作ることを余儀なくされた。その際に設立された第一物産などを中心とした大合同により、昭和34年(1959)、解散した三井物産とは法人格の異なる現在の三井物産が誕生した。

神岡鉱業の近況(昭和25年9月)
神岡鉱業の近況(昭和25年9月)

三井系企業では、三井鉱山が過度経済力集中排除法の適用企業となった。同社は、石炭部門と金属部門とを分離するようにとの指令を受け、昭和25年(1950)5月1日、金属部門が分離された。GHQ(連合国最高司令官総司令部)の財閥商号・商標・会社標章禁止政策に従い、分離した会社の社名は三井を冠さず、神岡鉱業株式会社とされた。ここに掲げたのは同社発足後、間もなく発行された同社のパンフレットである。神岡鉱業は、昭和27年に社名を三井金属鉱業と変更し、今日に至っている。

大企業の分割

GHQは、自由な競争を実現するため、昭和22年(1947)4月、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(独禁法)を公布させ、独占的大企業の分割に踏み出した。それを具体化するため、同年12月、「過度経済力集中排除法」(集排法)が制定され、持株会社整理委員会(→49 三井財閥の解体)が国内325社を独占的企業に指定し、分割の対象にした。この325社には、各部門の大企業がほぼ網羅されており、影響の大きさが懸念されたが、その後の占領政策の転換によって、対象が大幅に減らされた。結局、日本製鉄や三菱重工など、合計18社が集排法適用企業となり、たとえば日本製鉄が富士製鉄と八幡製鉄ほか2社に、大日本麦酒が日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒(現アサヒビール)に分割された。三井系の企業では、三井鉱山が適用をうけた(冒頭図版解説)。

商号・商標の使用禁止問題

以上のような財閥解体・企業再編の措置がすすめられていくなかで、昭和24年、GHQの指示を受けた持株会社整理委員会は、三井・三菱・住友各社に対して、財閥商号・商標・会社標章の使用禁止を指示した。翌年1月には二つの政令が公布され、三井・三菱・住友の財閥商号・商標・会社標章を、同年6月30日までに廃止することが義務づけられた。三井不動産の江戸英雄をはじめ、三井系各社の首脳は、住友・三菱とも協力し、使用禁止の取りやめもしくは実施延期を働きかけた。その結果、政令の実施延期が決定し、講和後の昭和27年(1952)には、政令の廃止措置がとられ、この問題は決着した。

それを受けて、すでに社名を変更していた財閥系企業が、次つぎに商号を復帰させた。三井系では、昭和27年に東洋精機工業が三井精機工業、東京信託銀行が三井信託銀行、三建工業が三井建設、日東農林が三井農林、中央生命保険が三井生命保険、神岡鉱業図を見るが三井金属鉱業にそれぞれ商号変更した。その2年後には、帝国銀行が三井銀行に改称し、三井系主要企業の一連の商号復帰が完了した。

三井グループ再結集へ

昭和25年、旧三井系企業の常務以上による親睦会「月曜会」が発足する。商号・商標禁止問題が、グループ結束のきっかけになったといわれている。また、日本経済が見事に復興を果たしていくなか、(現)三井物産の発足を契機として、昭和36年(1961)に、三井グループの社長会「二木会にもくかい」が結成された。高度成長期に三井グループ各社は飛躍を遂げ、グループの共同事業にも力を注いだ。昭和45年(1970)、アジアではじめて開かれた日本万国博覧会(大阪万博)では、三井グループ32社が、「創造の楽園」をテーマに三井グループ館を出展し、三井グループの再結集を内外に示した。

日本万国博覧会の三井グループ館
日本万国博覧会の三井グループ館

パビリオンの建築、企画、演出などを任されたのはアーティスト・山口勝弘(チーフプロデューサー)。直径40 m、高さ約30 mのドームを中心に、高さ50 mのシンボルタワーが立つ。

三井グループ万国博出展者会 記念碑
三井グループ万国博出展者会記念碑

グループ各社に送られた記念品と思われる。32社の企業名が彫られている。製作は三井金属鉱業株式会社。

 

49 三井財閥の解体
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