47 戦争と鉱山
採炭の機械化
三井鉱山は、1920年代以降、各炭鉱で機械を積極的に導入し、生産能率を増大させていた。特に、1930年代には、石炭産業でもっとも遅れていた採炭部門での機械化がドラスティックに推し進められた。火薬を充填する穴を掘るためのコールドリル、炭壁に「透かし」を入れるコールカッターなどが、採炭能率の上昇をもたらした。三井鉱山は、昭和10年(1935)に日本全体の15%にあたる約600万トンの石炭を産出しており、経費も節減して高い収益をあげた。
戦時体制と炭鉱
昭和12年の日中戦争の勃発によって、民需を抑制し、あらゆる物資・資金を軍需産業に集中することが求められた。その後、太平洋戦争下では労働(ヒト)、財(モノ)、金融(カネ)、に対する統制が全面的に行き渡り、国産エネルギー源である石炭の増産が奨励された。しかし、戦局の悪化とともに、労働者の不足、設備の摩耗、資材の欠乏が目立ってくる。そのような悪条件のなかでも、三井鉱山は昭和19年まで採掘量を増やし、内地で1000万トン近い石炭を掘っていた。
軍需への対応
戦時統制のもと、三井鉱山は軍需関係の生産や資源開発にも手を広げていく。下の解説でふれるように、人造石油事業(石炭などを原料にして人工的に石油を合成する事業)を成功させようと、軍の要請にもとづいて、満州合成燃料の工場建設・経営をひきうけた(→三井合名会社文書課「諸報告」)。石油の供給をアメリカに依存する日本は、国策としてこの大事業をすすめていった。三井の幹部内では、資財の入手難と計画の大幅な遅れなどから、消極的な意見も出始めるが、石油が極端に不足するなかで、軍との摩擦をかえりみず、同事業から撤退することはできなくなっていく。国内でも、三井は帝国燃料興業、三池石油合成、北海道人造石油、樺太人造石油などへ出資している。これらの人造石油事業には、合計約1億円もの資金が投入されたが、目覚ましい成果をあげることはできなかった。なかでも、満州合成燃料の工場は、試運転と修理を繰り返すなかで終戦を迎えるという惨憺たる結果であった。
その他、三井鉱山の三池染料工業所では、軍の要請に応じるため、爆薬などの軍需品の生産を拡充していった。昭和16年(1941)、三池染料工業所は三井化学工業として分離独立し、三井の化学事業は拡大の一途をたどる。
占領地での事業
日中戦争の進展にともない、三井鉱山は戦火の広がる中国大陸にも進出し、占領地の鉱山経営を引き受けていった。また、航空機素材としてのアルミニウム需要が高まると、原料のボーキサイトを確保するため、南洋アルミニウム鉱業に出資し、実質的な経営権を握った。パラオ本島ガラスマオに設置された同社のパラオ鉱業所は、昭和13年(1938)から採掘を開始した(→パラオ鉱業所職員社宅)。太平洋戦争が勃発すると、日本政府は、南方の占領地域で接収した現地工場・鉱山を軍管理とし、一部を軍直営、大半を民間委託経営方式で運営しようとする。昭和16年(1941)以降、三井鉱山も次々に経営の受託および軍直営事業への協力を命じられた。とりわけ、フィリピン(ルソン島)のマンカヤン銅山、マレーの錫鉱山、スマトラのブキットアサム炭鉱などが大規模な事業であった。南方には、多数の技術者や事務職員が派遣され、戦闘にともなう破壊と復旧を繰り返しつつ、現地労働者を雇用して資源の獲得に取り組んだ。
敗戦
三井鉱山は、戦時統制のもとで膨張し、化学工業部門を独立させた後も利益を出し続けた。ただ、占領地での経営は、激しい銃撃や空襲で多くの人員や設備を失うなど、苦難を強いられるものであった。敗戦時には、これらの海外資産のほとんどを喪失し、派遣された職員の多くが死亡者、行方不明者、残留者となった。炭鉱では、資材が欠乏するなかで、設備投資を行わずに無理な採掘をつづけたため、坑内を著しく荒廃させたまま、戦後復興に向かわなければならなくなる。
この記事は、昭和12年(1937)6月18日付で関東軍参謀長東条英機が三井合名会社の社長・三井高公にあてた人造石油会社の設立要綱(冒頭のみ)。この会社は「満州合成燃料株式会社」と名称を変更して設立されるが、三井鉱山は関東軍の要請をうけて、三井合名会社・三井物産とともに同社へ出資し、その工場建設・経営を担当することになる。石炭業で発展をつづける三井鉱山は、戦局が激しくなるにつれて、このような国策的な事業に資金を投入せざるをえず、その他軍需品生産の拡充や南方への進出など、軍との関係は切り離せないものとなっていく。
採掘を容易にする機械。炭壁の下部をそぎ落として発破の能率をあげる。
昭和19年(1944)になると、同鉱業所は空襲に見舞われる。従業者が飛行場の建設や陣地構築などに駆り出されることとなり、生産は完全にストップする。