43 金融部門の拡大
社債市場の拡大
1920年代の日本では、急速な都市化が進展し、おもに大都市で、道路、電気、ガスといったインフラの整備がすすめられた。また、電力業の発展にともなって、都市近郊電鉄の路線拡大と郊外住宅地の開発が盛んにみられた。
第一次世界大戦後の反動恐慌以降、株式市場が低迷するなか、こうした大規模な設備投資を必要とするインフラ産業、特に電力業や鉄道業において、巨額の資金需要が発生することとなった。その一方で、大手銀行では遊資が堆積し、金利も急落したため、社債の発行がにわかに活発化していった。日本全国の社債発行高は、大正4年(1915)に約5000万円であったのが、昭和2年(1927)年には約6億3000万円にまで増加する。発行社債の多くは、大手銀行が引き受け、信託会社と生命保険会社がそれを補完した。
信託業への進出
社債市場が活気づくなか、大正13年(1924)、三井合名会社は三井信託株式会社を設立した。その2年前、三井銀行常務取締役の米山梅吉が、アメリカでの外遊経験にもとづいて、信託業の必要性を説き、三井合名会社理事長の団琢磨とともに信託会社創立の準備を始めた。関東大震災の影響でいったんはとん挫したものの、アメリカの事情に詳しい団の後ろ盾を得て、米山は計画の実現を急ぎ、発足にこぎつけた。
大正13年3月、日本工業倶楽部において創立総会が開催され、取締役会長に団琢磨、代表取締役社長に三井銀行を辞した米山梅吉が選任された。資本金は3000万円で、三井合名会社の持株は総株数30万株のうち14万4320株(持株率48.1%)にとどまり、全株主数は332人であった。1000株以上の株主には、住友合資会社のほか、安田善四郎(2代目)、大原孫三郎、根津嘉一郎、各務鎌吉(三菱系)らが名を連ねた。また、取締役に三井系以外の財界人も加わっており、公共的な性格を有する会社として出発した。公共的な性格を有する会社として出発した。
生命保険事業への進出
1920年代には、保険に対する認識が深まり、保険加入者の主要ターゲットとなる都市中間層が形成されて、生命保険事業が急速に発展していった。三井信託の創立まもない大正15年(1926)、三井合名会社は、経営危機にあった高砂生命保険の総株式4万株のうち2万株を買収し、昭和2年に三井生命保険株式会社と名称を変更した。同社は、三井信託と同様に、三井の直系会社として傘下に加わった。開業初年度には、三井の関係会社を背景に顧客層を広げ、約2000万円にのぼる新規契約実績をのこした。これは、高砂生命保険から引き継いだ契約高1900万円を凌駕するものであり、三井の事業として、大きな躍進を遂げたことを示している。
インフラ整備への貢献
1920年代、とりわけ大正12年の関東大震災後、社債発行の需要が急激に増加するなか、三井銀行は、電力会社と電鉄を中心に社債の発行を積極的に引き受けた。全国の社債(事業債)発行高のうち、三井銀行の引き受け分は、昭和2年に約16%にも達した。三井信託も、定期預金より利回りの良い金銭信託で資金を獲得し、その大部分を社債投資にふりむけた。投資先は王子製紙、北海道炭礦汽船、電気化学工業といった三井系企業をのぞくと、電力や鉄道が中心であった。さらに、証券引き受け業務にも進出し、小田原急行鉄道などの社債発行を引き受けた(→小田原急行鉄道社債)。また、三井生命保険も順調に収入保険料を増やし、その運用資金を株式と社債に投入した。やはり、投資先は三井系企業と電力・鉄道関係の比率が高かった。三井銀行、三井信託、三井生命保険の金融三社の投資活動と証券引受業務は、日本のインフラ産業の発展に寄与していたのである。
三井信託が作成したパンフレット。アメリカの大手信託会社が発行した実話集を参考にして、三井信託の実例をとりあわせたもの。三井信託は、その他にも「信託の必要」などの冊子を配布し、個人財産を管理・運用する信託業務の効用について、平易に説明している。第一次世界大戦を経て日本経済は成長し、格差の拡大という問題をはらみつつ、所得水準は上昇した。そのような背景から、1920年代の日本では、社債市場の著しい発展がみられた。
昭和9年(1934)に三井信託が発行を引き受けたもの。
明治20年(1887)に渡米。8年間の苦学の後、明治30年に30歳で三井銀行に入り、42年に常務取締役に昇進。大正9年(1920)には東京ロータリークラブの初代会長に、昭和9年(1934)には財団法人三井報恩会(→45 財閥の「転向」)の理事長に就くなど、「奉仕の人」として知られる。