34 三井のドル箱
払下げ時の三池炭鉱
三池炭鉱が払下げられた明治22年(1889)の7月、大地震が九州地方を襲い、連日の豪雨もあいまって、官営期から開発中であった勝立坑が、多数のポンプとともに水没した。このような難しい状況のなかで、団琢磨は三井の炭鉱経営をスタートさせた。最大の難関は、三池炭鉱を悩ます多量の湧水問題をいかに解決するかであった。特に、水没前の勝立坑では、1分間におよそ10トンもの出水を記録している。団は、官営時代にイギリスで実見した(→デーヴィーポンプ)が必要であることを確信するようになっていく。
勝立坑の再興
勝立坑復旧のために、新鋭ポンプの導入を決意した団は、三井の首脳陣を説得するため、三池炭鉱払下げ価格の約10分の1にあたる50万円の予算書と辞表を携えて上京したという。デーヴィーポンプは、地上から水を吸い上げる強力な大型ポンプで、水没する危険がないという優位性をもっていた。益田孝らに対して、揚水に成功すれば水没した機械を回収できるし、不成功におわっても勝立坑以外の場所で使用できるので、その損失はポンプ据付費と開鑿費の8万円以内にとどまると説いた。その結果、巨額の予算案が認可され、ただちにポンプ購入の電報がうたれた。この経緯について、後に団は「其時始めて身は既に一介の技師ではなく一個の経営者となったことを自覚した」と語っている。明治25年(1892)7月、2基のポンプが大牟田に到着し、翌年10月には坑内水をすべて排出することに成功した。その後、デーヴィーポンプは、各坑に配備されるようになり、湧水の激しい三池炭鉱において画期的な意味をもった。
筑豊・北海道への進出
勝立坑の採炭が軌道にのると、宮原、万田と三池炭鉱は次々に新坑を開発した。明治35年(1902)、深さ約270メートルで着炭した万田坑は、操業10年目に年産80万トンをこえる主力坑へと成長した。三池で開発をすすめる一方、合名会社に改組した三井鉱山は、九州北部の筑豊地方へ進出していった。明治30年代には、嘉穂郡と田川郡での鉱区買収をすすめ、「山野炭礦」と「田川炭礦」を置いた(後に、山野鉱業所、田川鉱業所となる。(→田川伊田坑)。明治40年代には、北海道の鉱区へも触手を伸ばし、その後、登川(夕張)、砂川で本格的な採炭を開始した。
「三井のドル箱」
このように三井鉱山は優良鉱区を確保し、明治末には、日本の全鉱区の約15%、全出炭量の約19%を占めた。なかでも三池炭鉱の出炭量がもっとも多く、三井鉱山が採掘した石炭の6割以上が三池炭であった。しかも、明治42年(1909)時点でみれば、三池炭鉱の単独の利益金は約245万円にのぼり、三井鉱山の利益金約300万円の8割、三井銀行、三井物産、三井鉱山の3社合計利益金の3割超を占めた。「三井のドル箱」として、三池炭鉱は大きな役割を担っていく。
三池炭鉱では、七浦、勝立、宮浦、万田など各坑で「半月報」ないし「月報」が作成されている。「三池炭礦半月報」(ないし「月報」)はそれらをまとめたものと推定される。各坑の掘進・採掘・排水状況だけでなく、石炭市況、コークスの製造などについても細かく記されている。
(→この記事)は、明治23年(1890)7月から明治27年11月までの「三池炭礦半月報」のうち、明治27年3月上半期の報告。水没危機にあった勝立坑で、ようやく着炭にこぎつけた苦難の様子がいきいきと伝わってくる。勝立坑の再興は、団琢磨の経営者としての名声を高めただけでなく、三池炭鉱が「三井のドル箱」として発展していくための起点にもなった。
現代語訳
勝立坑の開坑事業は順調にすすみ、すでに報告したとおり、3月4日午前6時、炭層にたどりついた。坑口からの深さは約121メートル。(中略)水量は減少し、平均で1分間262立方尺(約7トン)。8尺層(約2.4メートルの炭層)で炭質は上等のようにみうけられる。
記事について
勝立坑は湧水問題のため開発が遅れ、一時水没する事態に陥っていた。それを復旧させたのが、官営時代にイギリスで最新鋭のポンプを調査し、三池炭鉱のトップに就いた団琢磨であった。
三井鉱山が社史編纂のためにまとめた「三池鉱業所沿革史」(昭和17年)に紹介されている図。
炭坑節で有名な田川伊田坑。中央左に「あんまり煙突が高いので/さぞやお月さん煙たかろ」と歌われた煙突がみえる。この二本煙突と深さ約360メートルの竪坑櫓(煙突よりやや左)は、現在も、田川のシンボルとしてそびえたっている。