32 三井物産、世界への展開
輸出商への成長
明治26年(1893)に合名会社に組織を改めた三井物産は、その営業を順調に伸ばしていった。三井物産の取扱高は、明治30年(1897)には、輸出1043万円、輸入3354万円であったものが、明治44年(1911)には、輸出1億1164万円(対30年比、10.7倍)、輸入1億1333万円(同、3.4倍)へと増加している。特に、輸出取扱高の伸びが顕著で、輸入額と拮抗するまでになっている。明治44年の三井物産の取扱高は、輸出において日本全体の約4分の1、輸入で約5分の1を占めるに至った。
この時期においても、石炭、機械、棉花、綿糸などの商売が基盤であったが、日露戦争後の時期に、急速に取扱高を伸ばしたものに生糸があった。三井物産は、対米輸出を中心とする生糸輸出で、外商を圧倒してシェアを伸ばしていった。
支店網の拡大
商売の拡張と表裏一体で支店網が拡大された。明治26年2月の時点で、国内の支店は、横浜、大阪、神戸、函館、小樽、馬関の6店、出張店・出張所が三池、口之津、長崎、島原、三角、高崎、若松の7箇所にあった。海外支店は、上海、香港、ロンドン、シンガポールの4店で、出張店・出張所が、天津とボンベイにあった。26年1月時点での職員録に掲載されている従業員(手代見習い以上)は、約250名であった。
明治44年5月の時点でみると、国内で、名古屋、門司の二支店が増え、三池と長崎が支店に昇格している。馬関支店、島原出張所、三角出張所、高崎出張所は廃止されている。海外支店は、台北に新設、ニューヨークが再開(→三井物産ニューヨーク支店)、天津とボンベイが昇格している。出張所は、台南、京城、安東県、大連、漢口、サンフランシスコと、アジアを中心に新設されている。従業員も、1166人となっている。
「工業化の組織者」
こうして、三井物産は、多様な商品を世界各地と取引する総合商社への途を歩んでいった。その活動は、商業・金融・海運など多岐にわたるとともに、単なる商事会社の枠を超えて、世界の最新の情報を集め、それに基づき産業企業の発展を支援する「工業化の組織者」と呼ばれる側面も持っていた。一例であるが、豊田佐吉の事業への支援は有名である。
支店長会議の開催
三井物産では、各地の支店長を東京に招集して、支店長会議(大正2年までは支店長諮問会議)を開催している。会議には本店本部の重役・担当者も出席し、そのほかに三井鉱山などの関係会社の担当者が参加することもあった。
支店長会議については、詳細な議事録が作成されており、そこから三井物産の経営方針、各商品・各支店の現状・課題、組織運営の問題点や改善策などを具体的に知ることができる。たとえば、大正2年(1913)の支店長諮問会議(7月10日から7月31日)の議事録は、活版印刷で626頁にも及ぶ大部なものである。「商品取扱金額ノ劇増ハ悦フヘキカ如キモ金融ノ関係若クハ純益ノ割合等ニ鑑ミ縮少方針ヲ執ルヘキモノアルカ如シ之ニ関スル意見如何」など10の諮問案についての議論と、石炭・機械・棉花など商品別分科会での議論が記録されている。
支店長会議では、本店側と支店長との間で、あるいは支店長同士で、激しい議論が交わされることもあった(→支店長諮問会々議録)。支店長会議は、本店の方針を支店長に伝達する場でもあったが、一騎当千の支店長達が、自由闊達な議論を展開し、三井物産の経営戦略を練り上げていく場でもあった。(→三井物産支店長会議記念撮影)
明治35年に開催された支店長諮問会での、石炭販路拡大策についての議論の一部である(左が表紙)。益田孝(理事)が、岩原謙三(ニューヨーク支店長)に対し、ニューヨーク支店から外国海運会社へ、汽船の燃料用石炭購入を働きかけられないものかと、ただしている。それは難しいと言う岩原に対して、益田は「紐育ハ生糸綿等白キモノ丈ニ熱心ニシテ黒キ炭ニハ縁薄キ故十分働カサルニハアラサルカ」と迫っている。
上記史料は、手書きで、「蒟蒻版」という方法で複写されている(翌年の議事録からは活版印刷となる)。「蒟蒻版」は戦前期の三井物産で多用されているが、経年変化で文字が薄れて行く。この史料も一部判読が困難になりつつある。
支店長諮問会(支店長会議)の議事録は、明治33年(1900)から昭和6年(1931)までの18回分が、現在確認されている。
明治29年(1896)に再開された三井物産のニューヨーク支店が入っていたビルディング。
大正15年(1926)6月に開催された支店長会議の際に、三井北家大書院前で撮影された写真。前列中央(右から9人目)に三井合名会社々長の三井高棟(→38 三井合名会社の設立)の姿がある。