27 明治七年の危機
三井組の官金取り扱い
明治政府の銀行制度が変転していくなかで、三井・小野・島田という為替方三家(→23 新政府への加担)が取り扱っていた大蔵省の官金出納業務は、明治6年(1873)創立の第一国立銀行が担当することとなった(→25 「バンク・オブ・ジャパン」構想)。しかし、その他省庁や各府県の官金出納は、従来と同様に三井組、小野組、島田組に委ねられていた。これらの業務は、租税などの官金を預かって上納するまでのあいだ、自由にそれを運用することができるという点で、三井組にとって重要な資金源となっていた。小野組が各府県の官金出納業務を先取りするなかで、三井組も出張店を全国的に拡充し、明治6年7月には、13県の官金取り扱いをつとめるまでに至った。
「抵当増額令」
そのようななかで、明治7年10月22日、いわゆる「抵当増額令」が政府より出された。従来までは、官金預かり金額の3分の1に相当する抵当を差し出すことになっていたが、その抵当額が預かり金相当にまで引き上げられた。しかも、その期限が12月15日に設定された。これは、官金を元手に債権の購入や貸し付けなどを行っていた為替方三家に衝撃をあたえた。小野組と島田組は、抵当物の調達に失敗し、それぞれ11月と12月に閉店する(→小野組破綻を伝える新聞)。三井組の場合、200万円をこえる抵当物を納めることが求められたが、各出張店では、放漫な資金運用がおこなわれており、いずれも滞貸を増加させていた。
外国銀行からの借入
この難局を三井組がいかに乗り切ったのだろうか。この点はながく議論の尽きないテーマであったが、最近の研究によって、三井組が不足した資金をオリエンタル・バンク(英国東洋銀行)から借り入れていたことが明らかにされている。三井組は、明治7年の5月から12月のあいだに、多額の抵当を設定したうえで、同行より合計100万ドルに及ぶ融資を受けた。この借入金を元手に公債や地券を調達し、期限までに抵当物を納入することができた。外国銀行からの借り入れという緊急事態は、外資による乗っ取りの危険をはらんでおり、三井組内部でも、一部の人のみが知る機密事項であったといわれている。オリエンタル・バンクとの折衝や政府関連情報の収集に、三野村利左衛門をはじめとする重役手代たちの働きが大きかったことは、三井同苗がその功績を称えた文面からうかがえる(→役替等級申渡控)。
政府の保護
このように「抵当増額令」の危機は乗り越えたものの、三井組は借入金の返済という新たな問題をかかえることになった。明治8年(1875)半ば頃には、大幅な債務超過状態に陥ってしまい、ガンに冒されていた三野村が再び奔走する。翌年、三野村は大蔵卿(大臣)の大隈重信と交渉し、設立されたばかりの三井物産が政府米の輸出を請け負い、その輸出代金をオリエンタル・バンクからの借入金の返済に流用できるようにした。破綻を免れたとはいえ、結局、三井組は政府の手厚い保護に頼らざるを得なかったのである。
三井組の統轄機関である大元方が作成した重役手代に対する辞令および賞状の写し。この記事は、明治7年(1874)12月、三井八郎右衛門(北家8代・高福)、三郎助(小石川家7代・高喜)、次郎右衛門(後の北家9代・高朗)、元之助(伊皿子家7代・高生)、源右衛門(新町家8代・高辰)、篤二郎(永坂町家6代・高潔)から三野村利左衛門にむけた謝辞。
現代語訳
このたび小野組は破綻した。(中略)あなた(三野村)が寝食を忘れて奔走し、いろいろと周旋した。しかし、巨額の抵当品を政府に上納するという難事にあい、その苦しみは大変なものだった。この危機により、万一破産した時は、祖先数代の苦労が水泡に帰すのみでなく、日本の商人として恥をさらすところであった。このように平穏の今日に至ったことは、あなたの指揮が行き届いた結果であり、その忠孝を称えたい。
記事について
明治7年(1874)、小野組が破綻した時、三井組も同じような危機に直面していた。その際、三野村をはじめとする重役手代が懸命に働いたことに対して、最大級の賛辞を送っている。この「賞状」の宛名(「三野村利左衛門殿」)のあとに、西邑乕四郎や三野村利助(三野村利左衛門の養嗣子)など、褒賞を受けた合計11名の名前が記されている。