23 新政府への加担
薩摩への接近
幕末期の三井は幕府倒壊まで江戸・横浜で幕府の公金取り扱いなどの御用を請け負っていた。しかし、のちに倒幕勢力となる薩摩藩との関係も築きつつあった。慶応元年(1865)、三井は薩摩藩の御用達となる。薩摩藩の発行した琉球通宝を、三都で引き替える業務を請け負ったことがきっかけだった。
慶応3年4月、島津久光の上京と期を同じくして、薩摩藩家老の小松帯刀ほか8名が三井高朗宅を訪れている(→三井高朗日記)。美術品観賞の名目であったが、それ以外の内談がなされた可能性は高い、とも言われている。
同年冬、三井は薩摩藩の依頼を受けて軍資金1000両を調達した。三井にも余裕は無かったが、京都市中の両替屋から借り入れて薩摩藩の要望に応えた。幕末期の三井は幕府との密接な関係を維持しつつも、薩摩藩とも接触していたのである。
草創期の新政府とのかかわり
慶応3年12月、「王政復古の大号令」により新政府が樹立すると、新政府は金穀出納所という機関を設置した。これは新政府の財政を担うもので、のちに会計事務局、会計官を経て大蔵省となる。最初の任務は京都市中の豪商や寺社から財政資金を調達することであり、三井をはじめ京都の商人や町中に拠出を要請した。三井は慶応3年12月晦日に1000両、翌年(慶応4年=明治元年)正月19日には小野・島田と連名で金1万両を献納した(→金穀出納所壱万両請取書)。三井の拠金は京両替店の穴蔵にしまわれていた積立金でまかなった。これらは幕府との戦費などにつかわれたという。また、三井は小野・島田と共に金穀出納所での出納事務に従事した。これは為替方三家と称されている。さらに、新政府軍の江戸進軍に際し、軍資金調達と兵糧米の確保なども命ぜられた。三井は手代を東山道軍に随行させて、江戸に到着するまで業務にあたらせた。
太政官札の発行と三井
新政府の財政資金は当初から不足していた。また産業振興のための資金も必要としていた。そこで、慶応4年5月に太政官札(→太政官札)という紙幣の発行を開始した。しかし、新政府の権威はまだ弱く流通させる強制力もなかった。また紙幣に対する信用も低かったため、流通の範囲も近畿圏に限られ、価値も下落していった。
同年8月、天皇の東京行幸(「御東幸」)が布告されると、三井・小野・島田の為替方三家などは道中の出納業務と不足金の調達を命じられた。三井同苗の高朗は自ら鳳輦(天皇の乗物)に随従した。政府は、道中の費用を太政官札で支払うことによって、太政官札を流通させようとしていた。東京行幸で支払われた太政官札は金11万6700両余であった。このように、三井は新政府との財政面での関係を築いて、明治の新時代を迎えたのである。
金穀出納所は新政府の財政をになう機関で、後の大蔵省である。慶応4年(明治元年、1868)正月19日、金穀出納所からの資金拠出の要請に応じて、三井は京都の有力な両替商である島田・小野と連名で金10,000両を献納した。これはその時に金穀出納所の発行した受取証である。和紙のサイズ(横65 cm、縦53 cm)、本文の文字の大きさ、豪快さに比して、拠金者である三井・島田・小野の名前が小さく書かれているのが印象的。
左から2番目の枠内に来訪者として小松帯刀の名前が見受けられる。
10両札、5両札、1両札、1分札、1朱札の5種類作成された。
東京行幸の各宿場での宿泊人数、宿泊費、馬の頭数、飼料代を書き上げたリスト。宿場ごとに作成されている。これは東京入京前日に宿泊した品川宿のもの。総人数2552人、馬38疋で、合計657両の費用がかかっている。