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09 家訓「宗竺遺書」

三井の規範

高利はまとまった家訓を残さず、子供たちの晩年、高利の遺志を踏まえるという体裁で制定された「宗竺遺書そうちくいしょ」が、近世の三井の家と事業を規定するものとなった。近世を通じて、重要な局面では、結束の象徴、立ち戻るべき原点として、この書がたびたび呼びさまされた(→申渡書)。また奉公人たち向けに、三井同苗に関する部分を除いた抜粋版の「家法式目」が作られ、各店で毎年1・5・9月の3回、読み聞かされていた。

以下、「宗竺遺書」に記された内容をみていこう。

全体の冒頭では、高平たち兄弟(→06 高利の子供たち)は仲むつまじかったが、これからの三井同苗は実の兄弟ではない、という現実認識から出発し、心を一つにし、身を慎み、上下和して家業に励むべきことが強調され、人それぞれの心を組み取り、自分を知って事をなせ、と述べられている。

「身上一致の家法」

近世の三井は、短い時期(→10 大元方1 一族と店舗の統轄)をのぞき三井同苗で財産・事業を共有した。高利の息子たちの申し合わせ(→06 高利の子供たち)に始まり、「宗竺遺書」にいたって「身上一致しんじょういっちの家法」「兄弟一致の家法」として明文化された。多数の店の有機的な結合が事業の基幹であり、一体としての継承が必要とされた。

こうした体制を保つため、三井同苗の範囲を明確にするとともに、各家の上位に「親分」を置くとされた。高平から年長の弟たちへ順に継承すると定められたが、高平が最も長生きしたので、その子・高房、次にその子・高弥たかひさ(→三井高弥)が就任した。

そのほか、生活費の規定、分家や隠居など、三井同苗のあり方が事細かに定められている。商売の全局面に精通するように、幼少時から各店を廻って商売の修行を積む順序も、詳しく定められた。

事業体制と危機への備え

親分に続く重職として、統轄機関である大元方の構成員が定められている。また奉公人から「元〆もとじめ」とよぶ最高幹部を選任するとされ、奉公人をよく選び、大切にする重要性が強調される。

事業の内容に関しては、高利が推奨していた新商売(→01 「元祖」三井高利)や、かつては有望な事業であった大名への融資を制限している(恩人の牧野家、領主の紀州徳川家は例外)。常に現金5万両を穴蔵に備蓄するよう定める(→千両箱と万力)。守りの経営との印象であるが、これはデフレによる不況の中で、存続を優先する立場で記されているためであろう。

「身上一致」を崩す時の方法や、「諸国大変」となり商売が不可能となったら発祥の地の松坂に引込むとの規定もあり、最悪の事態をも想定し対策を講じておこうとする用心深さがみてとれる。

繁栄の時代へ

こうして強い危機意識のもとに家訓を制定した三井は、享保期を生き延び、元文元年(1736)に幕府が貨幣を改鋳すると、これを巧みに利用して、急激な成長をなしとげ、繁栄の時代を迎えた。

宗竺遺書(そうちくいしょ)
宗竺遺書(そうちくいしょ)

享保7年(1722)、高利の長男・高平たかひら(→06 高利の子供たち)の古稀の年に、その遺言のかたちで定められた家訓。「家伝記」「商売記」など、老境にはいった高利の子供たちが作成した一連の文書の頂点をなすものである。これらと同じ箱に納められて封がされ、高平の嫡系である北家に伝えられた。同じセットを収めた箱が、本来は北家と京両替店、松坂の3か所にあったらしい。近代には、「三井家憲」(→37 三井家憲の制定)とともに特製の箱に納められ、三井家同族会が管理していた。

宗竺遺書(そうちくいしょ)

宗竺遺書(そうちくいしょ)
宗竺遺書(そうちくいしょ)
宗竺遺書(そうちくいしょ)
宗竺遺書(そうちくいしょ)

記事について

(→06 高利の子供たち

千両箱(左上・右上)と万力(下)
千両箱(左上・右上)と万力(下)

現金銀を備蓄するためのもの。商家の大敵であった火災・盗難に備え、銅の容器に収め、さらに地下の穴蔵に格納した。たいへんな重量となり、昇降には万力を用いた。維新期には一朱金・一朱銀を納めたという。

申渡書
申渡書

嘉永2年(1849)7月、大元方が発した改革の宣言。危機的状況に際し、宗竺遺書に言及している(2行目)。

三井高弥 1719-1778
三井高弥たかひさ(1719-1778)

没後に円山応挙が描いた座像。新町家3代。北家3代高房の子。明和7年(1770)から親分をつとめた。

 

08 危機と記録の時代
10 大元方1 一族と店舗の統轄