京都の町人・禁裏御用としての振る舞い
近世の都市社会そして京都の特性を考える上で、三井家の動向を明らかにすることがいかに重要であるかは言うまでもない。とまれ、近世以降、社会的・経済的に大きな影響力を持っていた三井家の実際の行動、特に京都という「古都」「王都」独特ともいえる行事や慣習に三井家がどのように対応していたのかについては、実はそれほど明らかではない。
筆者は近世の禁裏(天皇・朝廷)の特性や役割について、建築・都市史の視点から特に都市社会(町など)との関わりに注目しながら研究を続けている。そのなかで注目したのが三井家が禁裏御用として寛政度内裏造営の費用調達について記した「御造営御用一巻」(追591)であった。当初は経済面から内裏(禁裏御所)という大規模な造営の特性を把握するために確認した史料であったが、そのなかに書かれていたのは三井家の禁裏御用としての活動だけでなく、禁裏御用をつとめる町人(商人)としてあるべき姿であった。新しい禁裏御所の建物ができると御用をつとめた三井家当主らは新しい御殿や造営関連の儀礼を特別に「上場所」で拝見することが許された。そして、三井家はその拝見の継続を願い続ける。この行為を三井家という特別な家の特別な行為であり、続けて行うことは先例にならっただけであると指摘する人もいるだろう。しかし、京都という都市においては、このような名誉を継続させることが上層町人にとって極めて重要なのである。禁裏を見たことがあるからといって拝見を中断し、しかもそれが他者に伝わることは、三井家といえども家の存続にもつながりかねないことだったのではないだろうか。実はこのような考えに至ったのは、現在の京都ではいまだそのような風潮があるからである。現代の京都でもみられる「都」独特の慣習や性格をうかがい知ることができたという点で、本史料に強い印象が残っている。
(京都府立大学文学部歴史学科准教授)