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24 明治初期のリーダー

幕末・維新の大元方

幕末の動乱のなかで、事業を統轄する大元方の 運営にあたり、三井を牽引する役目を担ったのは、北家当主の高福、その子高朗たかあき、小石川家の高喜たかよしの3人であった(→明治初期のリーダー)。三井同苗の中心的な人びとが次々と没したため、安政6年(1859)から 高喜が、文久元年(1861)から高朗が、三井同苗を代表する「元方掛」(→10 大元方1 一族と店舗の統轄)となったのである。それぞれ高喜35歳、高朗24歳のときであった。

三井高福たかよし(1808~1885)北家8代。天保8年(1837)に八郎右衛門を襲名し、その後、 42年間にわたり三井家の総帥として君臨。次代のリーダーとなる高棟たかみね(→三井高福の八男(五十之助)と出生記事)を含め、10男5女をもうけた(うち4人は夭折)。

三井高朗たかあき(1837~1894)北家9代。高福と先妻れいとの間に生まれた長男。明治11年(1878)に家督をつぐ。幕府側・倒幕派それぞれ の情報収集に力を発揮したと伝えられる(→23 新政府への加担)。 病弱な面があり、明治18年には、養子となっていた高棟に家督を譲る。

三井高喜たかよし(1823~1894)小石川家7代。南家5代高英たかひでの8男。小石川家6代高益たかますの養子となる。几帳面で厳正な性格。若いころから筆まめで、自筆日記は40冊をこえる。

また、彼らを支えながら、明治初期の三井の組織改革をすすめたのが、重役手代の斎藤専蔵(明治4年に純造と改名)と、特別に三井へ招き入れられた三野村利左衛門(→22 開国と幕府の御用)の二人であった。

一路、東京へ

冒頭の図版解説でふれたように、明治4年(1871)10月に東京大元方が設置された。事業の中心を東京に移し、大元方を改革・強化すること を進言したのは、斎藤と三野村であった。大元方総轄となった高福、取締役の高喜・高朗は、同補佐の永坂町家6代高潔たかきよとともに京都を出発し、同年11月に東京に到着した。一行をむかえて、翌5年1月、海運橋兜町に「東京大元方役場」を置いた。このあと、重要な決定は東京大元方でくだされるようになる。

組織の再編

三井高福、高朗、高喜、高潔と、新職制最高位の「執事」となった斎藤・三野村らによる評議が、 呉服店の分離など(→26 呉服店の分離)、明治初期の三井にとって重要な方向付けをあたえていく。特に、明治6年に高福に代わって大元方総轄の地位に就いた三野村は、すぐれた指導力を発揮し、組織の改革・ 再編を断行した。江戸時代からつづく「両替店」と「御用所」を統合するとともに、京都大元方を出張所に格下げして、東京大元方を三井の事業の中枢として位置づけた。激動の維新期をくぐりぬけた三井は、明治7年(1874)竣工の「駿河町三井組ハウス」(→28 日本最初の私立銀行)を本拠地に、銀行、商社、鉱山というあらたな事業基盤を確立していく。

大元方「規則」
大元方「規則」

江戸時代の三井では、京都に置かれた大元方が、「本店一巻」(呉服部門)と「両替店一巻」(金融部門)と呼ばれる二つの事業組織を管理していた(→10 大元方1 一族と店舗の統轄)。しかし、新政府が樹立すると、事業の中心地を変える必要に迫られる。
明治4年(1871)10月20日、大元方の臨時会議が開かれ、北家当主の三井高福たかよしはじめ、大元方役の三井同苗4人は東京へ移住することとされた。この規則は、その決定を踏まえて、統轄機関である大元方を東京にも置くことが明記されたもの。ただ、伝統ある京都から東京に移ることに対しては、大きな抵抗も予想されたため、ひとまずは、東京と京都の二つの大元方が対等に存在することが強調された。

大元方「規則」
大元方「規則」

現代語訳

このたび東京に大元方を設置する。江戸幕府が倒れ、新政府が成立して以来、変革はすすんで政府も東京へ移った。すでに6月に「造幣寮御用」(新貨幣為替方のこと→25 「バンク・オブ・ジャパン」構想)を仰せつけられており、これまでどおり「京都で相談したうえで返答します」と政府に申し上げていては、至急の際には間に合わないので不都合である。ただ、東京に大元方を置くが、京都の大元方を廃止するわけではなく、根本は一つで枝が左右に伸びるように、役目を分けるということにする。

明治初期のリーダー
明治初期のリーダー

前列左から三井高喜、高福、三野村利左衛門、後列左から斎藤専蔵(純造)、三井高朗。

三井高福の八男(五十之助)と出生記事
三井高福の8男( 五十之助いそのすけ)と出生記事

安政4年(1857)1月14日、後妻都尾とのあいだに生まれた高福たかよし13番目の子。後の北家10代・三井高棟たかみね(→38 三井合名会社の設立)。高福の「手控日記」(→三井高福の八男(五十之助)と出生記事)には、「お都尾事今暁寅半刻安産男子出生母子共気丈致安心候事」(都尾、早朝に男子を安産。母子ともに元気で安心する)と記されている。

 

23 新政府への加担
25 「バンク・オブ・ジャパン」構想