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07 事業の統合と「大元方」

初期の重役たち

右にみたのは、近世の三井を特徴づける組織である「大元方おおもとかた」が設立された経緯を振り返った記事である。高平ら兄弟を説いて、その設置を推進した中西宗助らは、初期の重役であった。

高利は奉公人の抜擢、育成に優れていた(→01 「元祖」三井高利)。激しい嫌がらせ(→03 江戸進出05 幕府御用の引き受け)の中、奉公人たちの動揺を抑えきったのは、江戸出店から数年目に雇われた七左衛門という支配人だったという。

その後、各店で有能な奉公人が育ってゆき、次第に彼らが各店の運営を担うようになっていった。右の記事にみえる京本店の中西宗助・小林善次郎に京両替店の松野治兵衛、江戸本店の脇田藤右衛門(→03 江戸進出)、綿わた店の開主善兵衛などが代表的な人物である。彼らはそれぞれの店で腕を振るって事業を大いに発展させ、各店の「開山」「中興」と呼ばれた。その功績によって彼らの子孫は取り立てられ、奉公人中の名門となってゆく。

事業の統合

高富が没し、その他の兄弟たちも老いると、重役たちが各店に割拠して「我物に仕る」状況となり、巨大化した事業全体の統轄は困難になっていった。また苦労を知らない若い世代は贅沢を好み、その支出のコントロールも新たな課題であった。高利の子供たちが維持してきた、一族一体となっての事業経営が、近い将来に危機に瀕することが懸念されるようになったのである。

こうした状況が、大元方設置の背景にあった。その下にすべての店を編成しなおして全事業の一体化を図り、また三井同苗の出費をも包括的に管理しようとしたのである。宝永6年(1709)末には、大元方と各店の財務上の関係が定められ(→規矩録)、翌宝永7年から大元方の記録がつけられはじめた(→聞書帳)。

しかし各店の重鎮の抵抗は根強いものがあり、その後20年ほどの時間をかけて、店舗網と決算制度が整備されてゆく。各店は呉服業の「本店一巻ほんだないちまき」と金融業の「両替店一巻りょうがえだないちまき」に組み込まれ、各店が蓄積していた資産を大元方がすべて吸収し、改めて各店へ営業資金を融資する体制が整えられていった(→11 大元方2 利益の集約)。

統轄機関「大元方」

大元方は三井同苗と奉公人の重鎮の合議制で、三井同苗と全ての事業を統轄し、全資産を集約・管理した(→10 大元方1 一族と店舗の統轄11 大元方2 利益の集約)。その設立にあたり、各店に資産状況の精査・報告を徹底させたところ、大元方が最初に掌握できたのは、総額で銀8864貫あまり(金にして約15万両弱)であった。貨幣の価値は下がっているものの、高利の没時(→01 「元祖」三井高利)の倍額である。これは同時代の幕府が西日本で1年に支出した金銀の約56パーセントにあたる。多くの商家が後継者に人を得ず没落していく中で、高利は次世代の育成に成功していたといえよう。

この後、厳しい不況が到来し、高利なき後を支えた子供たちや重役たちが没してゆくと、三井は危機の時代を迎えることになる。

中西宗助覚(なかにしそうすけおぼえ)
中西宗助覚(なかにしそうすけおぼえ)

享保2年(1717)作成。中西宗助は、近世の奉公人を代表する一人。貞享4年(1687)から奉公し、若くして本店の重役となり、事業の統合と新たな体制づくりを推進し、多大な業績を残した。この史料は、みずからの進退を賭して、三井の一族に対し、改革の徹底を進言したもの(左上は末尾の署名と宛先の部分)。大元方で保管されていた原本。
自身の勤務歴についても詳しく記されており、事業の変遷や奉公人の役割も知ることができる。特に事業の統合については、推進者による大変貴重な証言となっている。

中西宗助覚(なかにしそうすけおぼえ)

中西宗助覚(なかにしそうすけおぼえ)
中西宗助覚(なかにしそうすけおぼえ)

現代語訳

(各店の収支や)三井一族の生活費をリストにし、小林善次郎と私(中西宗助)が(高平のもとへ)持参して、説明した内容は、「我々は元締という重役であるが、大元を知らず、従来の体制では各店舗の善し悪しも判断しがたいので、今回申し上げる趣旨により工夫して頂き、『お仲間の会所』という役所を設置し、全店舗をいっそう励ませてみたい」と申し上げたところ、(高平は資料を)ご覧になり、「大変もっともなので、(弟の)高治・高伴(→06 高利の子供たち)と相談し、追って設置しよう」とおっしゃった。その後、ご相談がまとまり、役所は御用所の奥に置き、「大元方」と名付け、その設計を、在京の重役である松野治(次)兵衛と私(中西)に命じるとのことだった。

規矩録きくろく
規矩録きくろく

宝永6年(1709)12月作成。大元方の設置に伴い、そのもとでの各店のあり方を定め、各店に通告したもの。同時に7店分が作られたことが分かっており、この3冊が現存する。

<ruby>聞書帳<rt>ききがきちょう</rt></ruby><br />
聞書帳ききがきちょう

大元方からの通達事項などを記録したもので、大元方の最初の記録。上はその冒頭。まず「始マリ」とあり、宝永7年(1710)1月付の通達書類の写しが載る。後には「寄会帳よりあいちょう」という記録が作られるようになる。なお、情報記録の「聞書」(→21 変わりゆく社会、三井の苦悩)とは異なる。

 

06 高利の子供たち
08 危機と記録の時代