04 「現金掛け値なし」
三井の看板文句
近世の三井のキャッチフレーズといえば、大成功を収めた商法「現金(・安売り)・掛け値なし」である。この文言は宣伝チラシ(「引札」、→14 呉服店3 競争と販売)や、後世好んで絵に描かれた店の看板に記され(→描かれた看板文句)、同時代から広く知られた。この商法は、近世を通じて、事業の根幹として認識されていた。
「現金掛け値なし」とは
右にみた記事によれば、それまで呉服は適正価格が分かりづらく、知識と交渉力のない人には買いづらかったところを、どんな客も同じ値段で買える方式とし、大繁盛となった、という。従来の呉服販売は、武士などの富裕な顧客と安定した関係を結び、その屋敷まで商品を持参し、そのつど交渉して値段を決め、支払いは期末に一括する方式(「屋敷売」「掛売」)であった。初めこうした得意先をもたなかった高利父子は、縁戚の松坂商人・伊豆蔵が行っていた店頭販売(「店前売」)を導入し、現金払いとする工夫(「現金売」)によって、不特定多数の顧客を相手とした。さらに値引き交渉を前提に値段を高めにつける慣行(「掛け値」)を改め、価格を固定して、呉服に詳しくない客でも納得して買えるようにした。
成長する江戸で
高利父子の新商法は、市場の変化にたくみに対応したものであった。江戸は新たな政治の中心として人口を急激に伸ばしており、高級服飾品である呉服に対する巨大な需要が生まれていた。高利の商法は、江戸で急速に増えていた人びと、具体的には、高い地位や収入は得たが、まだ呉服の知識や定まった取引関係は持たない人びとを、たくみに顧客として摑んだものであったと考えられる。
様々な新商法
右に紹介した「商売記」には、新商法を奨励する高利の言葉や(→01 「元祖」三井高利)、実際の様々な工夫が記録されている。例えば、他の商人は毎年判で押したようにきまった仕入をするのが慣例であったのに対し、高利は仕入値の安いものがあれば、江戸での注文によらず大量に仕入れさせ、その価格に応じて江戸での販売価格を細かく調節し、薄利多売を押し進めた。
次男・高富(→06 高利の子供たち)も新商法の工夫を様々にこらし、また江戸出店時以来の奉公人の理右衛門も、各地の呉服商相手の商売(「諸方商人売」)を始めるなど、商売上の工夫がさまざまにこらされた。
巨大な成功
高利父子は短期間で大成功を収め、江戸出店から10年で売上高は5倍に伸びた。
その成功は華々しいものであった。はやくも元禄元年(1688)には、大作家・井原西鶴が高利をモデルとする商人を登場させて絶賛し(→01 「元祖」三井高利)、商品の種類ごとに専門の担当を置くこと、布地の切り売り、羽織などの即時仕立てなどの商法を紹介している。
高利父子のあまりにめざましい成功は、同業者たちの激しい反発をまねき、また出身地・松坂の領主である紀州徳川家に続いて、将軍家や幕府高官たちも、三井に注目するようになってゆく。
高利3男・三井高治(→06 高利の子供たち)作。享保7年(1722)に完成し、総領家である北家に伝えられた本。享保期に作られた一連の記録の一つで、創業期の事業や高利の言行について記す。高治自身による教戒も付記される。高利の代は、帳簿などの書類の保存にまで手が廻っておらず、この記録が最も詳しく当時の事業を伝える。
高利の商才を讃え、子孫に伝えることを主な狙いとし、記載事項の選択にも取捨がなされていることがわかっているが、高治は10代から父・高利の指揮下で事業の第一線にあった人物であり、記された内容は信頼できると考えられている。
商売記(しょうばいき)
現代語訳
呉服は他の商品と違い、種類が多く、生地の品質も紛らわしいもので、(値切り交渉を前提に)偽りの値段を言うことが多く、素人が買うことは難しかったのを、遠い地方の人や女の子、目の不自由な人が来店しても大丈夫なようにし、現金払い・偽りの値段なし、の商売を始めた。天下の人が皆、我々の商品を値切らず、いくらの買物でも我々のつけた値段通りに買物をして、喜んでいらっしゃった。また遠くからお客様が来て詰めかけて下さり、午前中でも時によっては順番を待って買物をされた。このようなことは昔にもなかった。外国にも、こうした商法によって客がみな納得するという例はなかった。
19世紀の浮世絵に描かれた、駿河町の江戸本店の看板。この店先は江戸の名所であり、多くの絵に描かれた。「現金(銀)無掛直」と記されているのが分かる。
右:葛飾北斎「富嶽三十六景江都駿河町三井見世略図」部分
中:二代喜多川歌麿「駿河町越後屋」部分
左:作者不詳「駿河町越後屋正月風景図」(→03 江戸進出)部分