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48 戦時下の事業再編

株式の公開

昭和恐慌からの回復過程に入ると、三井鉱山、芝浦製作所、北海道炭礦汽船、小野田セメント製造、大日本セルロイド、電気化学工業などでは新規投資が急増し、増資が繰り返された。三井合名会社(→38 三井合名会社の設立)は、これら直系会社・傍系会社への払込資金調達のために、所有する傍系会社株式の一部を売却した。こうした売却は昭和11年度から本格化するが、当初は直系会社や直系金融機関による肩代わりも多く、財閥内での移動という側面もあった。

日中戦争期(昭和12年以降)になると、三井鉱山・三井物産が資金需要増大による大規模な増資をおこない、芝浦製作所など傍系会社の増資も巨額になり、また三井合名会社自身も、満州合成燃料や北支那開発などの国策会社への新規投資を行ったため、三井合名会社の所要投資資金は急増した。こうした投資資金の増大は、三井財閥内部での資金蓄積を上回るペースであり、三井合名会社は、所有株式の売却を一層進めることになった。これまでは、金融機関は別として、直系会社の株式は全額を三井合名会社が所有していたが、昭和14年末から、ついに三井鉱山の株式公開に踏み切った。その時点では、売却先は三井関係の縁故者に限定され、譲渡禁止条件付きであったが、譲渡禁止条件は、昭和17年に撤廃される。三井財閥の基幹部分においても閉鎖的資本所有(→38 三井合名会社の設立)の維持が困難になってきたのである。昭和13年度からは借入金も生じている。

三井合名会社社員総会議案
三井合名会社社員総会議案

三井合名会社を三井物産に合併する合併案を承認した三井合名会社社員総会の議案。この合併案による三井合名会社改組に対しては、同族の一部と専門経営者の一部に強い反対があったが、三井合名会社常務理事の向井忠晴は、社長・三井高公(→49 三井財閥の解体)らの支持を背景に、大蔵省当局の意向を盾に、この合併案を実現させた。この合併の目的は、戦時経済の進行とともに増税が推し進められる中で、三井の持株会社を合名会社の形態で維持しつづけると、三井家の相続税財源の確保が難しくなること、二重課税の負担が重いこと、新規事業資金の確保が難しくなることから、持株会社を株式会社化することにあった。

財閥統轄機関の変遷

昭和15年(1940)8月27日、三井合名会社は三井物産に吸収合併され解散した。それまで子会社の位置にあった三井物産が三井の事業の持株会社となった。合併に先立ち、金融三社(三井銀行、三井信託、三井生命)の株式は、三井合名会社から三井家同族へ譲渡された。

両社の合併の前日、三井11家によって、三井同族組合と三井総元方が組織された。三井同族組合は、三井合名会社の解散後も、三井家同族の所有する事業資本を分割不可の統一資本として維持するための資産保有組織であり、三井総元方は、三井同族組合の委託を受けて、これまで三井合名会社がはたしてきた財閥の事業統轄をおこなう機関とされた。こうして、三井物産が傘下会社の持株会社ではあるが、三井財閥の統轄は三井総元方がおこなうという、変則的な体制が成立した。

しかし、こうした体制では、財閥の統轄には無理があり、昭和19年3月1日、三井物産は商号を変更して三井本社となり、新たに設立した商事会社・三井物産に交易商事関係部門の営業を譲渡し、三井総元方の財閥統轄機能を継承して、統轄機関に変身した。

統轄機関変遷図

傘下会社の増大

三井総元方のもとで、三井傘下事業の再編成が進められた。昭和16年に、三井不動産、三井化学工業、東洋軽金属(昭和19年に三井軽金属と改称)が設立された。昭和17年には、三井精機工業と三井船舶が設立され、玉造船所が三井造船に、東神倉庫が三井倉庫に改称した。昭和18年には、昭和飛行機の経営権を三井が掌握している。また、この時期に、関係強化のため、東京芝浦電気、東京石川島造船所(現IHI)への出資比率を高めようと試みるが、進展を見ずに敗戦を迎えた。

昭和19年9月に、三井本社が、直系会社10社、準直系会社12社の指定をおこなった。その頃の三井財閥傘下会社の広がりは、104頁に掲載した図のようになっていた。

向井忠晴(一八八五–一九八二)
向井忠晴(1885-1982)

三井物産出身。三井合名会社常務理事、三井総元方理事長として、一連の事業再編を主導。昭和19年(1944)1月、山西事件(三井物産の経済統制違反事件)の責任を取り、三井総元方理事長を辞任。戦後、第四次吉田内閣の大蔵大臣。

 

47 戦争と鉱山
49 三井財閥の解体