45 財閥の「転向」
昭和恐慌
昭和4年(1929)10月24日、ニューヨークの株式市場が大暴落した。アメリカで発生した恐慌は、全世界をまきこんだ世界恐慌へと発展した。浜口雄幸内閣のもとで、緊縮政策がすすめられていた日本経済も、昭和5年から未曾有の不況に見舞われた。都市には失業者があふれ、農村では娘の身売りや欠食児童の問題が出るなど、かつてない厳しい不況におちいり、国民や軍部は、政治家および財界の指導者に対する不満を募らせていった。
「ドル買い事件」
このような状況下で、三井が世間から糾弾された「ドル買い事件」がおこる。昭和6年9月、イギリスが金本位制を停止すると、円の下落を見込んで投資家、金融機関、貿易商社が盛んに円売り、ドル買いを始めた。為替相場の維持を国策とする政府は、市場に介入しつつ財界に協力を求める一方で、ドルの思惑買いを「国賊」的な行為だと強く批判した。三井銀行と三井物産が、政府の要請に応じる姿勢をとりつつも、多額のドルの買予約をしていたため、世論の非難は三井に集中した。11月には、社会青年同盟と称する一団が三井銀行営業場(三井本館1階)に乱入し、三井非難のビラを撒くなど、三井に対する風当たりは強まるばかりであった。三井銀行や三井物産は、思惑買いではなく、純粋な商取引に関わる売買だと反論したが、その真相・評価は現在でも定まっていない。
団の死と同族の引退
財閥批判が高まるなか、昭和7年(1932)、団琢磨が「一人一殺」を標榜する血盟団員に射殺された(→凶弾に倒れ、自宅に戻る団琢磨)。実質的なトップの横死は、三井全体に大きな衝撃を与え、財閥の「転向」と呼ばれるさまざまな改革がすすめられる契機となった。昭和8年、団とともに三井の一時代を築いた三井高棟が引退し、北家の家督を相続した高公が、三井合名会社の社長に就いた。また、団の後継者として、三井銀行筆頭常務であった池田成彬が、三井合名会社筆頭常務理事に就任した。財閥批判をかわすため、池田の強力なリーダーシップのもと、一連の「転向」策が実施される。第一に、三井家同族を事業の第一線から引退させた。昭和9年には、三井銀行、三井物産、三井鉱山の社長職にあった同族がそれぞれ退任した。
社会への資金還元
第二に、社会事業や公益事業に多額の寄付を行った。昭和9年4月に、三井合名会社からの3千万円の寄付によって、社会・文化事業への助成を目的とする「財団法人三井報恩会」が発足した。この財団設立が発表されると、「三井が公益事業にぽんと3千万円」などと大きく報道された。公立の小学校教員の初任給が50円前後であったことを考えると、いかに巨額の寄付であったのかが分かる。具体的な事業としては、児童保護への助成や、農村で副業的な収入を得るための共同加工施設に対する支援などをおこなった(→農村の共同加工施設(昭和9年))。
株式の公開
第三に、三井系企業の一部の株式を公開し、「利益を独占している」という批判をかわそうとした。三井物産傘下の東洋レーヨン、三井鉱山傘下の東洋高圧工業、三池窒素工業の株式が公開され、昭和8年9月には、三井合名会社所有の王子製紙、北海道炭礦汽船の株式も売却された。こうした株式の公開は、不足する事業拡充資金や先に紹介した寄付金を調達する役割も果たしていた。
「転向」の評価
このような三井の「転向」策に対して、当時ら、財閥批判をやわらげようとする「カモフラージュ」にすぎない、という否定的な意見もあった。株式を公開したといっても、公開したのは三井合名会社直系のものではなく、株式の売却先も三井物産、三井生命保険、三井信託に集中しており、その評価は難しい。ただ、社会・文化事業への寄付については、多くの人びとに好意的に受け止められた。
昭和7年(1932)3月5日、三井合名会社理事長の団琢磨が暗殺された。午前11時25分頃、三井本館三越側玄関(三井銀行入口)の石段をのぼりかけた団に、血盟団員の若者が接近し、隠し持った拳銃を右胸部に向けて発射した。団はすぐに本館五階の医務室に運ばれ、手当てを受けたが、まもなく絶命した。1ヶ月前にも、井上準之助元蔵相が殺害されており、あわせて「血盟団事件」としてよく知られている。上の図版は、事件の翌年に三井鉱山本店が製作した「団理事長を葬ふ」という記録映画から切り出したもの。撮影は松竹キネマ。映画は、暗殺された日に団が自宅から車で出勤する再現シーンからはじまり、現場の本館玄関の様子、遺体を運び出す静止画へと続く、ストーリー仕立てになっている。財界の重鎮であった団に対する襲撃事件は、当時の日本の世相を反映した出来事であり、世界中に驚きをもって報じられた。
左は宮崎県高原町での竹細工作業風景、右は神奈川県山北町での缶詰製造の作業風景。
明治28年(1895)に三井銀行に入行、明治42年に常務就任。同行で経営手腕を発揮し、「ドル買い事件」の際にはその矢面にたった。団暗殺後、財閥の「転向」策を断行し、昭和11年(1936)には、重役の定年制を設けて自らも勇退。その後も、日銀総裁、第一次近衛内閣の大蔵・商工大臣を歴任するなど、政財界で活躍した。