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44 三井の規模

三井の企業群

第一次世界大戦の前後から、三井は重化学工業部門に進出し、その後、信託や保険などの金融事業にも乗り出した。こうした多角化戦略の展開によって、三井は多くの傘下会社を組織する巨大な財閥となった。昭和7年(1932)時点では、持株会社=本社である三井合名会社を頂点に62社で構成された(持株比率30%以上の会社)。三井の「直系会社」のうち、三井銀行、三井物産、三井鉱山、東神倉庫、三井信託の5社は、みずから傘下会社を有する持株会社でもあった。

三大財閥の覇権

三井と同様に、三菱や住友も持株会社を設立し、銀行や鉱山などの直営事業を基盤にして、重化学工業分野に手を伸ばしていた。1920年代の不況のなかでも、三井、三菱、住友はその力を強めることに成功した。この「三大財閥」の系列企業が、日本の株式会社上位100社の総資産額に占める割合は、昭和4年時点で28%にのぼった。なお、昭和5年末の全国主要会社433社のうち、三井系とされる企業は35社、三菱系が37社、住友系が18社であり、三大財閥で全資本金額の約30%を占めたという推計値もある。なかでも、三井のシェアがもっとも高く、全資本金の約15%を占めたといわれている(三菱10%、住友5%)

三井合名会社の資産

三井の事業を統轄する三井合名会社は(→39 三井財閥のガバナンス)、第一次世界大戦期に傘下会社への株式投資を増加させ、大戦後に不動産、農林事業へ集中的に投資した。おもな収入源は傘下会社からの株式配当で、純益金は、大正13年(1924)から昭和4年(1929)まで、約2000万円以上を計上しつづけた。その結果、同社の資産額は、大正4年の約8000万円から、大正9年に約3億円、昭和5年には約3億8000万円にまで増加し、日本最大の財閥としての地位を確立した。

三井本館の竣工

昭和4年3月、このような三井の規模を象徴する重厚な洋風建築物が完成した(→昭和4年(1929)竣工の三井本館)。大正13年2月、本館の新築を決定した三井合名会社は、ニューヨークのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所に設計監督を委嘱し、ジェームズ・スチュアート社との間に工事実施契約を締結した。実際に着工されるまでのあいだ、震災復興計画との調整、使用資材の確保などに奔走したのが、三井合名会社不動産課であった(大正3年に新設、三井不動産の前身)。不動産課は、英語に堪能な三井物産機械部の手島知建を課長として招き、アメリカで設計に関する交渉をすすめていった。大正14(1925)年10月、建築案が確定し、翌年5月に地鎮祭が執り行われた(→記念ショベル・純銀製記念リベット)。起工から竣工までの工事日数は964日、総工費は2131万円であった。当時、一般的なビル建築費は一坪あたり200円であったから、その10倍の約2200円をかけたことになる。

三井の総本山

新三井本館には、換気・給湯・冷暖房の装置に加え、エレベーターや書類送達用施設などが備えつけられた。また、地下には、50トンの米国モスラー社製の円形扉をつけた金庫がおかれた。三井合名会社のほか、三井生命保険を除く「直系会社」(三井信託、三井銀行、三井物産、東神倉庫、三井鉱山)が入居した。三井の総本山となったこの建物は、その後、反財閥の状況下で団理事長暗殺の現場となり(→45 財閥の「転向」)、敗戦時には一部接収をうけるなど、激動の時代の渦に巻き込まれていく。

昭和4年(1929)竣工の三井本館
昭和4年(1929)竣工の三井本館

敷地面積約1,700坪、総建坪数約9,500坪、鉄骨コンクリート7階建(地上五階、地下二階)のアメリカン・ボザールスタイル新古典主義の洋風建築物。平成10年(1998)に、国の重要文化財に指定された。大正12年(1923)9月1日、関東大震災が発生した。駿河町(現日本橋室町)の旧三井本館(明治35年落成)は、内部に火が回ったものの被害は少なく、復旧は容易であった。しかし、三井の事業は拡大しつづけており、旧本館は手狭となっていたため、三井合名会社は本館の新築を決定した。理事長の団琢磨は、「Grandeur」(壮麗)、「Dignity」(品位)、「Simplicity」(質素)の三つのコンセプトに加えて、耐震性と耐火性にすぐれた設計を依頼したといわれており、当時の三井の威容を誇る建物となった。

記念ショベル
記念ショベル

大正15年(1926)5月31日の地鎮祭の時に三井高棟たかみね(→38 三井合名会社の設立)が使用したもの。「with thisshovel BARON HACHIROEMON MITSUI turned thefirst earth for construction of MITSUI MAINBUILDING, May 31, 1926」と刻まれている。

純銀製記念リベット
純銀製記念リベット

昭和2年(1927)11月10日、上棟式がおこなわれた際、三井高棟が最後の銀鋲を屋上の鉄製構造物に打ち込んだ。三井文庫に残っているのはその複製物。

アメリカ人技術者たちと日本人作業員の記念撮影
アメリカ人技術者たちと日本人作業員の記念撮影

竣工までの作業員の延人数は約59万人にのぼった(1日平均610人)。

 

43 金融部門の拡大
45 財閥の「転向」