39 三井財閥のガバナンス
三井合名会社による統轄
三井合名会社の設立により、三井家同族が資本を閉鎖的に所有し、持株会社である三井合名会社が傘下事業会社を所有し統轄するという三井財閥の体制が確立した。傘下事業会社は、それぞれの分野で、日本を代表する企業であり、三井財閥は日本経済において揺るぎない地位を占めるに至った。財閥が、戦後の企業グループとは大きく異なる点の一つが、財閥本社による傘下会社の統轄である。三井合名会社が、傘下会社を統轄する手段には、①傘下会社の取締役会報告の提出、②各社株主総会前における業務報告会の開催、③経理などに関する報告書の提出、④各社役員への人員派遣、⑤各社役員・幹部人事についての事前承認、などがあった。各種の報告や、役員への派遣によって傘下会社の経営状況を掌握する体制が整えられていた(→日本製鋼所取締役会報告)。
重要議案の審議制度
傘下会社のうち、三井物産・三井鉱山・東神倉庫に対してはより強力な統轄手段があった。それは議案の審議制度である。これら三社では、毎回の取締役会で「決定」された議案のうち重要なものを「未決」として三井合名会社へ提出した。それ以外の取締役会決定議案は「決議」とされ、三井合名会社へ報告された。三社から提出された「未決」議案は三井合名会社で審議され承認されると初めて正式に可決となった(→物産議案)。
傘下会社から三井合名会社に提出された議案は、そのほとんどが原案通りに承認された。しかし、それは三井合名会社での審議が形式的なものであったことを意味するのではなく、傘下会社から提出される議案については三井合名会社の首脳との間で事前の折衝がおこなわれ、調整の済んだ議案が三井合名会社に提出されたものと考えられている。
三井銀行・三井信託・三井生命保険の金融三社については、こうした三井合名会社による議案審議制度はおこなわれていない(大正8年の株式公開以前の三井銀行については、おこなわれていたと考えられている)。なお、東神倉庫は、三井合名会社が所有株式を三井物産に売却した昭和13年(1938)5月以降、議案審議対象外となった。
三井合名会社における意思決定
三井合名会社の最高議決機関は三井11家の当主である社員が構成員となる社員総会であったが、開催は年に数回程度で、附議される案件は、三井合名会社の決算、重要人事、新規子会社の設立などごく限定されたものだけであった。特に定められたもの以外は、三井家同族(3~4名)が務める業務執行社員会で決定されることになっていた。
大正3年(1914)8月、三井合名会社に、理事長職が新設され、団琢磨が就任した。これは、金剛事件(軍艦金剛受注に伴う贈賄事件)を受けて、制度と人事を再構築する措置の一環であった。大正7年には、理事会(専門経営者で構成)が発足し業務執行社員会に提出する議案その他重要な事項を審議する機関と位置付けられた。その後、業務執行社員会は、理事会の決定を追認する性格を強めて行き、実際には理事会が三井合名会社(そして三井財閥)における実質的な意思決定の場としての役割をはたすようになった。傘下会社から提出される重要議案も、ここで審議された(→三井財閥における意思決定過程)。
同族の役割
三井財閥内部でのこうしたガバナンスのあり方に、資本所有者である三井家同族は、どのように関わっていたのであろうか。同族は、三井合名会社の出資社員として社員総会という最高意思決定の場に参画する。同族の重鎮は、三井合名会社の業務執行社員として経営判断に携わる。さらに同族は、傘下会社の役員(社長、取締役、監査役)に手分けして就任していた。三井銀行・三井物産・三井鉱山では、昭和9年(1934)初頭までは、三井家同族が社長を務めており、複数の同族が役員に就任していた。
三井家同族が、重要な方針決定や人事に関して、公式・非公式双方の場で、強い異論を唱えて方針が変更されることもあった。「番頭政治」とも言われる三井においても、専門経営者達は、同族の意向を充分に斟酌する必要があったのである。
三井物産の取締役会議案のうち、重要な議案は、三井合名会社の承認を必要とした。三井合名会社へ回される重要議案は、大正末期から昭和初期の三井物産の場合、取締役会議案の6割弱を占めていた。内容は、店長以上の人事、起業費、関係子会社の新設、寄付金、規則の制定改廃、決算など多岐にわたっていた。
ここに掲げたのは、後に三井物産のトップを務めることになる石田礼助をカルカッタ支店長から大連支店長に転任させる案件などの人事議案である。左が、三井物産会社の取締役会議案で、社長以下取締役の押印があるが、これのみでは最終決定とはならない。右は、三井合名会社へ提出された同議案に添付された三井合名会社議案用箋で、承認の印に、三井合名会社社長・三井高棟、理事長・団琢磨の花押などが記されている。
日本製鋼所は、北海道炭礦汽船(三井合名会社の子会社)が最大株主だったが、三井合名会社も直接株式を所有していたので、取締役会の報告を毎回、三井合名会社に提出していた。また、決算は、三井合名会社の事前承認を要した。日本製鋼所は、三井傘下の数少ない重工業メーカーであり、三井合名会社にとり重要な子会社であった。