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38 三井合名会社の設立

模索の過程

明治20年代に入ると、三井では、各営業店(傘下事業会社を「営業店」と呼称した)の改組や、中枢部での様々な組織の設置・改廃が相続いた。

三井の三本柱として発展してきた銀行・物産・鉱山が、明治26年(1893)7月、商法一部施行に合わせて、同族当主を出資社員とする合名会社にそれぞれ改組された。

同年11月、三井家同族会が設立され、その事務機構として三井組を改称して三井「元方」が設置された(明治33年の家憲施行により三井家同族会事務局に改称)。三井家同族会は、同族当主を正員、同族隠居・成年推定相続人・「特ニ会員ニ推薦シタル者」(実際には営業店の重役たち)を参列員とし、三井の家政と事業に関する最高意思決定機関と位置付けられた。

事業部門に関する実質的な意思決定の場は、明治29年から明治38年の間に、三井商店理事会→三井営業店重役会→三井家同族会事務局管理部と推移した。三井家同族会事務局管理部(部長=小石川家8代・高景たかかげ、副部長=益田孝)に至って、三井全事業にわたる方針を総合的視野から統一的に立案し推進する組織が成立した。

こうしためまぐるしい変化は、家政と事業との関係、財産共有制と各同族の権利との関係、同族と専門経営者との関係、各営業店と三井全体との関係、所有と事業統轄との関係などを最も適切に解決できる形を、三井家憲(→37 三井家憲の制定)の理念に沿いつつ、民法・商法の制定施行をも睨みながら、模索する過程であった。

その到達点が、明治42年(1909)10月11日に設立された三井合名会社であった。以後、家政は三井家同族会が、三井の全事業は三井合名会社が統轄する体制が定着した。

旧三井本館

旧三井本館は、明治29年(1896)10月に起工、明治35年(1902)10月に完成した。横河民輔の設計による、地上四階(屋根裏を含む)・地下一階、延べ床面積約2800坪の建築であった。日本最初の「鉄骨鉄筋式補強建築」で、外装には、花崗岩(備中産と筑波産)と化粧煉瓦(深川に窯場を築いて特製)が使われた。鉄材は、米国カーネギー製鉄所製の鋼鉄2000トン以上が使われたという。三井家同族会、三井合名会社、傘下直系会社の本店がここに置かれた。関東大震災の折に、内部が火災に襲われ、館内にあった文書類が焼失した。そのため、三井合名会社設立前後から震災までの時期については、いずれの会社についても、今日に伝わる史料が少ない。旧三井本館は、震災後に、現三井本館(→44 三井の規模)に建て替えられた。

三井合名会社=持株会社

三井合名会社は、傘下各事業会社の株式を所有し、それら諸会社を統轄することを目的とした持株会社であった。設立から間もない明治43年1月末時点での同社所有株式は、左上表の通りである。直系会社の内、三井銀行と三井物産は、三井合名会社設立と同時に、それぞれ株式会社に改組された。東神倉庫は、三井銀行から倉庫部門を分離独立して株式会社化された。

表には三井鉱山の名前がない。三井合名会社は、形式的には、三井鉱山合名会社が、定款と商号を変更することによって設立されており、その際、三井鉱山を三井合名会社の鉱山部とする形がとられたためである。2年後の明治44年(1911)に、鉱山部を三井鉱山株式会社として分離独立させている(三井合名会社による100%所有)

表 三井合名会社の所有株式 明治43年1月31日

数量(株) 時価額(円)
直系会社 三井銀行 * 200,000 20,000,000
三井物産 * 200,000 20,000,000
東神倉庫 * 7,000 700,000
傍系会社 芝浦製作所 * 20,000 1,000,000
王子製紙 88,015 1,272,420
小野田セメント製造 2,500 93,750
堺セルロイド * 29,520 767,350
その他 東亜興業 1,600 40,000
横浜電線 1,000 50,000
合計 43,923,520

*は三井合名会社が全株式を所有。ただし、東神倉庫は、三井銀行・三井物産・三井家同族所有分と合わせて全株式となる。
王子製紙は旧株と新株2種の合計。

出資社員

三井合名会社は、三井11家の当主を出資社員とする無限責任の会社であった。社長には、北家十代・高棟たかみねが就任した図を見る。定款では社員に関して、以下のことを定めていた。資本金5千万円に対する各社員持分を、北家当主23%、各本家当主10.5%、各連家当主3.9%とする(これは三井家憲が定める同族財産の持分割合に従っている)。社員が戸主権を喪失したときには、その社員としての権利義務は家督相続人に継承される。社員が、持分の全部または一部を他人に譲渡もしくは担保に差入れることを禁止する。

定款におけるこれらの規定と、三井家憲における、同族除名の際には営業資産持分を制裁金として没収するとの規定等があいまって、三井の財産共有制が維持されることになった。

閉鎖的所有と有限責任の実現

出資社員を三井各家当主に限定した三井合名会社が、直系会社の株式を100%所有することにより、三井の事業資産を三井家同族が閉鎖的に所有する体制が確立した。その一方で、直系会社の株式会社化により、営業組織の有限責任化が可能となった。持株会社による傘下事業の所有と統轄という方式は、明治40年(1907)の欧米視察の際にアメリカで見聞したカーネーギーの事例を参考に、益田孝(→30 三井物産の創立)が立案したものであった。

三井高棟たかみね(1857-1948)

北家八代・高福たかよしの八男(→24 明治初期のリーダー)。北家九代である長兄高朗たかあきの養子となる。明治十八年、家督を相続し、八郎右衛門名を継ぎ、北家十代となる。明治二十九年、男爵受爵。三井合名会社の初代社長となり、理事長団琢磨との名コンビを謳われる。昭和八年に七十七歳で隠居(→45 財閥の「転向」)。

 

37 三井家憲の制定
39 三井財閥のガバナンス