35 三池港の開港
三池炭の海上輸送
三池炭鉱の位置する大牟田川河口(福岡県大牟田市)は、遠浅の内海で知られる有明海に面している。潮の干満差は、5.5メートルに達するほどで満潮のときでなければ、船の出入りは困難だった。そのため、三池の石炭は、島原半島先端の口之津港(現長崎県南島原市)まで、小さな船で運ばれた。口之津で荷揚げされた石炭は、三井物産の汽船や外国船に積み替えられ、その多くは上海、香港、シンガポールにむけて輸出された。
三池築港計画
三池炭鉱の開発がすすむと、大牟田から口之津までの輸送量に限界が生じ、石炭の積み替えにかかる費用も大きくなっていった。三池での出炭量は、明治23年(1890)に50万トン弱であったのが、明治34年には約90万トンまで増えた。潮の干満差に左右されず、直接汽船に積み込むための施設が求められるようになった。三井鉱山の専務理事となっていた団琢磨は、牧田環(→42 石炭化学工業の展開)らをともなって、明治31年(1898)にはカーディフなどイギリスの港湾を視察しており、帰国後、すぐに三井首脳から三池築港計画の同意をとりつけることに成功した。明治35年、300万円という巨額の予算で工事が開始される。
大工事の様相
この築港工事は、下図のとおり、諏訪川より四ツ山の山麓にいたる約36万坪の区画を埋め立て、そのなかに4万坪のドックを築造する計画であった。また、ドックの外側には、15万坪の内港を設け、約1.8キロの突堤をもって外海につうじる航路をつくる設計であった。(→三池築港図)
明治35年(1902)11月、まず予定埋立地の外周を潮止めするため、石垣で堤防を築く作業から開始された(→潮止め工事の様子)。2年後の5月、石垣工事の落成とともに、約1000名を動員して干潮時に一気に締め切った。そのうえで、岸壁の高さ約12メートルの繋船壁の築造、水位を維持するための閘門の設置(→三池港閘門)、内港および航路の浚渫などがすすめられた。明治41年(1908)、ドック内に水が引かれ、4月1日に「三池港」と命名されて開港した。5年余りを要した大工事の費用は総額375万円、使用した人夫の延人数はじつに260万人に及んだ。
三池港の意義
三池港の完成により、ドック内に1万トンの船舶3隻が同時に繋留し、潮の干満にかかわらず石炭を積み込むことが可能となった。また、ドックの繋船壁には2台の「三池式快速船積機」が据え付けられた。これは、イギリスに製作を依頼した新式の機械で、設計者の黒田恒馬と団の名前から、「ダンクロローダー」と呼ばれた。明治44年には、入港船が347隻(約67万総トン)にのぼり、翌年の石炭積出量は約140万トンに達した。
「百年の基礎」
三池築港工事は、三池炭鉱の発展に不可欠な大事業となったが、団の構想によれば、大牟田という地域の未来を見据えたものでもあった。後年、団は次のように語った。
「石炭ハドウシテモ尽キルノダ(中略)築港ヲヤレバ、(中略)石炭カ無クナッテモ他処ノ石炭ヲ持ッテ来テ事業ヲシテモ宜シイ(中略)、築港ヲシテ置ケバ、何年持ツカ知レヌケレド、幾ラカ百年ノ基礎ニナル」(→団理事長談話速記)
明治42年(1909)4月、三池港の開港祝賀式において、三井鉱山社長の三井高景(小石川家8代)は、団の意向を汲むような式辞を述べている。
「三池築港ハ其目的専ラ三池石炭ノ輸出ニ在リト雖、亦之ヲ永久ニ伝ヘテ幸ニ公衆ノ用ニ供スルヲ得ハ、洵ニ我々ノ本懐ナリ」
それから100年経った今、三井の港として築造された三池港は、九州とアジアをつなぐ国際物流の拠点としての役割を果たしている。
明治41年(1908)4月、三池港が開港した。上の写真は、三池港のドック入口に設置された閘門で、ドック内に海水を引き入れる直前に撮影されたもの。日本で唯一の閘門式のドックは、一部の修理・改修を経て、現在でも当時のまま利用されている。
この閘門は、鋼鉄製の二つの扉(一枚の重量約91トン)が潮の干満に応じて開閉し、ドック内の水深を約8.5メートルに維持するもっとも重要な施設である。遮水を確実にするため、両扉の接触部には、虫害に強く比重の重い南米産「グリーンハート」という特別な木材が用いられている。満潮時には、この扉は水面下となるため、それより高い位置に通路が設けてある。閘門の水路幅は約20メートルで、当時最大であった1万トン級の船が入渠する前提で設計された。
土木機械がなかった当時において、石垣の築造、岸壁工事、ドック内の掘り上げなどの作業は、すべて人力で行われた。
団琢磨が自身の経歴や三井の事業などについて回顧したもの。現在まで語り継がれている団の言葉や理念は、この記録に拠っていることが多い。