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30 三井物産の創立

先収会社

明治6年(1873)、財政上の意見対立によって大蔵大輔たいふを辞職した井上馨(→37 三井家憲の制定)は、大阪の商人・岡田平蔵らとともに、鉱山業と貿易業を営む岡田組を立ち上げたが、創業間もなく岡田が急死したため、あらたに先収会社を立ち上げ、明治7年に業務を開始した。先収会社の主な業務は、陸軍省へ納入するじゅう(毛織物)・毛布・武器等の輸入、東北米や山口県の地租引当米などの取引であった。明治8年(1875)12月、井上の政府への復帰が決まり、先収会社は閉鎖されることになった。そのとき、三野村利左衛門(→22 開国と幕府の御用)は、先収会社を三井で継承し、経営を益田孝に任せたいと、井上と益田に持ちかけた。当初、益田は消極的であったが、三野村は様々なルートを通じて働きかけ、何度か話し合いを持つうちに、益田の気持ちが動いたようである。明治9年(1876)5月1日、井上宅において、井上馨・益田孝・三野村利左衛門の三者会談がもたれ、先収会社を三井が引き継いで新会社を創立することが内定した。その日の会談で、新規契約・新規商売の開始については三野村の同意を必要とするが、新会社の基本的な経営権は益田が握ることなど、新会社の基本が固まった。6月13日に、三野村と益田・木村正幹との間で契約が調印され、先収会社を引き継いで三井物産会社を創立することが確定した図を見る

三井物産「日記」
三井物産「日記」

三井物産「日記」は、同社本店の業務日誌で、取引内容、社員の動き、人事、三井銀行や政府・官庁との連絡などを知ることのできる貴重な史料である。明治9年(1876)から明治31年(1898)までの全24冊がある。
ここに掲げたのは、「日記」第1号の表紙と冒頭の記事である。明治9年7月1日の創立を前に、6月13日に井上馨邸でおこなわれた会談の記録で、「本日は兼而約束ニ因而三野村、益田、木村三名井上氏ノ家ニ会合シ先収会社ト当社〔三井物産―引用者〕トノ約条并益田孝対談書并約条書共調印セリ」とあり、先収会社の業務を引き継いでの三井物産創立が確定したことが記されている。初期の「日記」では、総轄・益田孝や副総轄・木村正幹が、自ら筆をとることが多かった。この日の記事は、益田が書いている。

三井物産の創立

明治9年(1876)6月23日、三井物産会社創立願書が東京府知事あてに提出され、7月28日付けで認可の指令を受けた(創立は7月1日とされている。なお、現在の三井物産は、ここで創立された三井物産とは法的継続性のない別個の企業体である〔→50 敗戦からの復興―三井グループ再結集へ〕)。

新会社は、三井武之助・三井養之助の組合約定によって成立し、両名を社主とした。創立に合わせて、武之助、養之助両名と三井家同族との間で両者は「判然其身代ヲ別ニシタルモノ」であり、相互に負債を償う等の義務を負わないこと、両名は三井家同族と籍を別にするが、一族の列からは除かないことなどを取り決めた。

三井物産は、日本産品の海外輸出、内地需要品の輸入をその目的にかかげ、思惑商売を極力排し、確実な口銭収入に依拠することを営業の基本方針とした。資本金は定めず(明治13年8月に20万円と定める)、三井銀行との間に5万円、第一国立銀行との間に1万円を限度とする借越契約を結んだ。創立時の正確な従業員数は判明しないが、創立間もない明治9年9月2日時点での社員(月給雇用者)は、16人であった。

国産方の合併

三井物産は、明治9年11月15日に、三井組国産方を合併し、その人員51名を受け入れた。三井組国産方は、諸国物産取扱を目的として、明治7年(1874)年8月に設立され、米穀をはじめとする各地物産の流通ならびに荷為替金融を扱うとともに、明治政府の意を受けて米穀の海外輸出も取り扱っていた。国産方は、先収会社とならぶ、三井物産のもう一つの前身と言える。

益田孝と木村正幹

三井物産の創立は、総轄(明治13年、社長と改称)に就任した益田孝あってのことであった。益田は、佐渡地役人の家に生まれ、文久3年(1863)の幕府遣仏使節の随員従者として渡欧経験があった。幕府瓦解後、横浜のアメリカ一番館=ウオルシュ・ホール商会に雇われ、一年ほど勤める間に、貿易の実務を習得した。その後、岡田平蔵に誘われ大阪の金銀分析所を手伝うことになり、その頃井上馨の知遇を得た。井上のすすめで大蔵省に入ったが、井上の下野に連なって辞任、先収会社の創立に参加し、その経営の実際を取り仕切っていた。そうした益田の力量に三野村は目をつけたのである。

副総轄(同、副社長)に就任した木村正幹は、天保14年(1843)生まれの元長州藩士で、井上が先収会社を創立した際に、誘われて参加した。堅実な性格であったようで、三井物産においては、商売を縦横に展開する益田を支える役割であった。無資本で出発した三井物産の潤沢ではない資金面は、もっぱら木村が手配していたという。

こうした二人に、三井は破格の待遇を用意した。

契約では、益田の俸給が月額200円、賞与金が三井物産の純益金のうち10%、木村は、同じく100円と5%となっていた。第一回決算(明治9年7月から12月)では、契約に従い、益田に792円余、木村に396円余の賞与が支払われた図を見る

第一回決算報告
第一回決算報告

益田と木村への賞与額の記載箇所

益田孝(一八四八–一九三八)
益田孝(184-1938)

三井物産を世界的商社に育て上げ、三井全体のリーダーとなり、三井財閥の組織を作り上げた。茶人としても著名で、鈍翁と号した。

 

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31 初期三井物産の経営