26 呉服店の分離
呉服部門の不振
幕末以来、呉服部門の業績は不振をかさね、明治に入ってからも状況は悪化し続けていた。大きな社会変動により、得意先を失った三井越後屋の不良債権(「滞り銀」)は、明治元年(1868)に約1万1000両に達した。また、慶応3年(1867)春から明治元年秋まで、大元方へ上納する利益金(→10 大元方1 一族と店舗の統轄)を捻出することができず、未納額が累積で14万両ちかくにまで積み上がっていた。明治3年(1870)6月には、「本店」が「呉服店」と改称され、これまで、三井の中心的な事業として位置づけられていた呉服業の地位は低下した。
分離の背景
呉服店の不振が深刻な様相を呈するなかで、明治政府は、三井のリーダーたちに呉服業からの撤退を促すようになった。当時、政府は銀行制度の中心に三井を据えようと構想中で(→25 「バンク・オブ・ジャパン」構想)、呉服店が三井の信用を失墜させることを懸念していた。明治4年(1871)9月、大久保利通や井上馨らは、三井の代表として出頭した三野村利左衛門に対し、金融業以外の商売では三井の名前を使わないよう指示した。さらに、翌年1月には、井上が三井高喜・高朗・高潔、三野村、斎藤純造(→24 明治初期のリーダー)を私邸に招いて、大隈重信や渋沢栄一とともに呉服店を分離するよう勧告し、その場で「即答」を求めた。
「表は離れ内輪は離れず」
三井は、内部で調整を図ったうえで、明治5年(1872)3月、銀行設立に専念することにし、呉服店の分離を受諾した。三井家の三の字と越後屋の越の字をとって「三越家」という架空の一家を創立し、これに呉服店を譲渡する形式がとられた。店章も従来の井桁三文字を廃止し、新たに丸に越があてられることになった。下の史料にあるように、三井同苗としては、「表は離れ内輪は離れず」という意向のもとで分離を実現していったものとみられる(→内番書刺)。高辰と高生は、この手紙の文末で、今回のことは「極密御内談」の件であり、情報が漏れると「大事件」になると綴っている。呉服業からの撤退が、三井家にとっていかに大きな出来事であったのかを窺い知ることができる。
呉服店から百貨店へ
新たに創られた三越家では、使用人筆頭者が「三越得右衛門」名義で当主をつとめていたが、明治10年(1877)、高生の2男高信が三越家相続人である得右衛門を襲名した。その後、明治25年(1892)、三井家は得右衛門を三井の姓に戻して、同族に加える決定をくだす。その結果、三越呉服店は三井家の事業として「回収」され、翌年、合名会社三井呉服店として再出発した。しかし、陳列販売方式の導入など、一連の経営改革を進めた三井呉服店は、明治37年(1904)に株式会社三越呉服店として再び分離独立することになる。翌年1月、全国主要新聞各紙に「デパートメントストア宣言」の広告を掲載し、三越は日本における百貨店の先駆けとなった。
三井同苗や奉公人の書状を綴った大元方の記録。ここで掲載した記事は、明治5年(1872)2月4日、三井高辰(新町家8代)・高生(伊皿子家7代)の連名で、東京大元方の取締役である三井高喜、高朗、高潔(→24 明治初期のリーダー)に送った返信。高辰と高生は、高潔とともに東京大元方の取締役となっていた。この手紙には、呉服部門の分離の経緯が克明に記されている。
現代語訳
右(金融業に専念して呉服業を分離すること)については、呉服店を親類の三越のものとし、屋号はそのままとするが、暖簾印は井桁に三の文字を使わないものとする。呉服業を経営する家に三越と名乗らせて、表向きは三井家の手から離れたものとする。(中略)表は離れ、内輪は離れずの趣旨のもと分離を行う。以上のことをお聞きしましたが、ごもっともと存じます。
明治時代、小林清親筆。手前左が三越呉服店。丸に井桁三ではなく、今日によく知られている丸越の暖簾がかかっている。奥の和洋折衷の建物が、明治7年(1874)2月に竣工し、明治9年に三井銀行本店となった「駿河町三井組ハウス」(→28 日本最初の私立銀行)。