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25 「バンク・オブ・ジャパン」構想

新貨条例

維新期には、金、銀、銅、藩札、太政官札といった、さまざまな貨幣・紙幣が流通していた(→16 両替店1 両替業と御用23 新政府への加担)。それに加えて贋金も横行し、いわば混乱状態にあった。通貨の統一に取り組む新政府は、太政官札を明治5年(1872)までに新貨幣(金貨)と交換することを表明したうえで、明治4年5月、円・銭・厘を単位とする新貨条例を公布した。しかし、新貨幣の鋳造は円滑にすすまず、鋳造された貨幣は増大する財政支出に充当されてしまった。旧貨幣の回収を急ぎつつ、太政官札を消却して、通貨価値を安定させていくことが早急に求められた。そのようななか、三井は、政府との関係をより一層深めることで、銀行というあらたな事業基盤を形成しようとした。

「真正之銀行」

大蔵省首脳の大隈重信、井上馨、渋沢栄一らは、有力な商人に「バンク・オブ・ジャパン」を設立させ、新貨幣を引換準備として、新紙幣を発行させることを構想した。念頭にあったのはイギリス流の中央発券銀行制度であった。金貨と交換可能な信用ある銀行券であれば、鋳造される貨幣量を超えて発券・流通させることができるし、政府資金も増えるので、財政上のメリットがあると考えられた。そこで、明治4年6月、新旧貨幣の交換と古金銀の回収を業務とする「新貨幣為替方」に、三井を単独で任命し、「真正之銀行」の設立にむけて努力するよう命じた。

為替座三井組

指令をうけた三井は、明治4年(1871)7月に「為替座」三井組の名義で新旧貨幣の交換業務を開始した。また、独自の紙幣を発行する銀行設立願書を政府に提出する。これは、渋沢が起草したものであり、銀行制度の中心に三井を据えようとする政府の意図があらわれている。翌月には、この請願が許可され、三井の紙幣(→官許正金兌換証券)が製造にむけて動き出した。

ところが、伊藤博文の強い反対にあって、認可は取り消される。伊藤はアメリカをモデルとして、国立銀行条例を施行し、紙幣発行の特権をもつ国立銀行(国の法律に則った民間銀行)を多数設立させることで、太政官札を消却することを主張した。結局、大勢は伊藤案に傾いていった。

大蔵省兌換証券

こうして、為替座三井組による銀行券の発行は見送られたが、依然として、新貨幣の鋳造は必要量に追いついていなかった。そこで政府は、明治4年9月、「→大蔵省兌換証券」の発行を定し、その業務を為替座三井組に委託する。この兌換証券を流通させ、漸次、新貨幣と引き換えることで、ひとまずその場をしのごうとしたのである。三井組が証券発行と引換の費用を負担する代償として、発行額の20%については、交換のための準備金(新貨幣)がなくても、自由に運用することができるとされた。これは、運転資金の枯渇に苦しむ三井に少なくない利益をもたらした。

第一国立銀行の開業

明治5年(1872)、井上や渋沢はこれまでの態度を変え、三井に対して小野組と協力して銀行(「三井・小野組合銀行」)を設立するよう働きかけるようになる。三井と小野は政府の意向に従わざるをえず、共同で銀行設立願書を提出した。政府は、それをうけとったうえで、第一国立銀行に名称を変更するよう指示し、国立銀行条例を公布した。大蔵省の出納業務は同行が担当することとされ、三井組の「為替座」の名義は廃止となった。

翌年、「海運橋三井組ハウス」(→東京開華名所図絵之内海運橋第一国立銀行海運橋五階造模型)で開業した第一国立銀行は、三井高福たかよし(→24 明治初期のリーダー)、小野善助の二人の頭取という体制でスタートする。ところが、小野組が破綻した後(→27 明治七年の危機)、同行を三井の銀行にしようとした三野村利左衛門の画策もむなしく、明治8年には、下野した渋沢が頭取に就任し、経営の実権を握られてしまった。三井は、二転三転する政府方針に翻弄されながら、再び単独の銀行創立にむけて舵を切っていく。

東京開華名所図絵之内海運橋第一国立銀行
東京開華名所図絵之内海運橋第一国立銀行

明治時代、三世広重筆。描かれているのは、通称「海運橋三井組ハウス」(現日本橋兜町)。明治5年(1872)6月竣工。設計・施工は2代目清水喜助。5階建て、総建坪264坪、屋上の旗竿より地上までの高さ約26m。
明治4年、三井組は政府の構想のもと、新紙幣を発行する銀行の設立にむけて準備をすすめた。その営業店舗として建造されたのが、「海運橋三井組ハウス」であった。ところが、政府の方針転換によって、小野組と共同で第一国立銀行を創立せざるを得なくなる。しかも、落成まもないこの建物を同行へ譲渡するよう強要された。東京の新名所となったこの建築物は、激動の時代に翻弄される三井の姿を体現している。

官許正金兌換証券
官許正金兌換証券

明治4年(1871)7月、為替座三井組が大蔵省に提出した新紙幣のひな形図。大きさは幅19 cm、縦9 cm とし、左右下には、三井高福たかよし高朗たかあき(→24 明治初期のリーダー)の姿を彫刻する予定であった。「三井金券」と呼ばれる。

大蔵省兌換証券(右表、左裏)
大蔵省兌換証券(右表、左裏)

明治4年10月より為替座三井組が発行した兌換証券(10円)。「三井札」とも呼ばれた。

海運橋五階造模型
海運橋五階造模型

昭和5年、堀越三郎制作。100分の1模型。写真や参考図書から失われた図面が復元され、それをもとに鋳造された。

 

24 明治初期のリーダー
26 呉服店の分離