22 開国と幕府の御用
横浜出店と公金取り扱い
安政5年(1858)に諸外国と修好通商条約(安政の五ヶ国条約)を結び、日本は鎖国政策を解いて開国した。翌年6月には、横浜が諸外国との貿易港として開かれた。越後屋も幕府の要請を受けて、江戸本店の出店として横浜店を設けた。(→神奈川横浜新開港図、異人三井店にて仕入買いの図)
横浜店では呉服販売と、幕府の要請で貿易などに関する様々な公金出納の御用を取り扱っていた。公金取り扱いは、幕府から大量の資金を預かって、随時必要な支払いに応じるというものだった。ところが、横浜店は、預り金を呉服販売の運転資金や、生糸商人への貸付、洋銀相場への投機などに流用し、大欠損を生じさせていた。慶応3年(1867)段階で、金22万両余、洋銀4万ドル余の預り金に対して、手元にはその半分程度しか残っていなかった。
御用金の賦課と対応
この時期の幕府は海防費をはじめ、将軍家茂の上洛や長州戦争の軍資金など、多くの金銀を必要としていた。三井も何度となく御用金(→21 変わりゆく社会、三井の苦悩)を課されていたが、慶応2年には150万両の御用金を命じられた。この御用金は、横浜での多額の欠損を踏まえたものとみられていた。大元方は公金取り扱いの欠損の実態を知り、対応に乗り出した。まず課された御用金を50万両(のちに18万両)に減額し、かつ数年で分割して上納するよう願い出て認められた。
また、新たに勘定所の貸付御用を命じられた。これは江戸の問屋に、商品を担保に資金を貸し付けるものであった。三井にとっては貸付利息を得られるものだったが、断るとこれまでの預かり金全額をすぐに上納せよと命じられかねない状況であり、御用を引き受けざるをえなかった。
御用所の開設
慶応2年(1866)、大元方は勘定所の貸付業務を行うため、御用所という部署を設置した。御用所は横浜店の公金取り扱いも引き継ぎ、江戸・横浜における幕府関係の出納業務の多くを引き受けて幕府財政の一角を担った。
幕府の倒壊や新政府軍の江戸進駐で幕府の御用は停止するが、御用所の貸付は江戸問屋を資金面から援助する上で一定の役割を果たしたと思われる。三井と新政府との関係ができると、新政府の御用を御用所で取り扱うようになる。御用所は三井の呉服部門と金融部門にならぶ事業となって、その重要性を増していく。
三野村利左衛門の登用
これらの動きの中で重要な位置にいたのが(→三野村利左衛門)という人物だった。三野村は両替商を営んでおり、三井や勘定奉行の小栗上野介に出入していた。三井が150万両の御用金の減額を幕府に願い出る際、三野村に勘定所への仲介を依頼し、幕府側と交渉を進めて御用金の減額に成功した。
三井は御用所での公金取り扱い業務を行わせるために三野村を雇い入れた(→三野村利左衛門)。外部の人材を中途登用するのはきわめて異例だった。
開港した横浜の様子を描いた錦絵。時期は不明だが、日本人も外国人も入り交じって、多くの人と物が行き交う華やかな横浜の様子が描かれている。左手の真ん中あたりの店頭に三井の暖簾印が見える。
三井の横浜店では呉服販売と幕府の公金取り扱いを行っていた。横浜店の書状には、店にやってくる外国人(→異人三井店にて仕入買の図)のことや、南北戦争によるアメリカの景況の噂を聞いていることなどが書かれており、横浜店の手代が新時代の到来を肌で感じている様子がうかがえる。しかし、横浜店の呉服販売は不調で、設置の3年後には業務を中止した。
実父は出羽国(今の山形県)の藩士で、利左衛門の幼少時に父が出奔して浪人になり、共に諸国を放浪したという。25歳で神田の紀伊国屋という砂糖や油を扱う商人の婿養子となり、美野川利八を名乗る。苦労の末に財を成し、両替商の株を買い入れた。上の史料は寄会帳という大元方の会合(寄合)の記録である。慶応2年11月2日の寄合で、美野村(美野川の誤りか)利八を御用所の重役として雇い入れ、美野村利左衛門と改名することを決定している。