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15 呉服店4 商品仕入の多様化

産地の拡大

江戸時代の初期には京都に集中していた西陣物などの高等技術は、中頃以降になると地方に伝わり、丹後や加賀、上野こうずけ(以下、上州)や武蔵などの関東各地でも絹織物を作れるようになった。また、木綿は江戸時代の前半から、伊勢松坂や河内・和泉で織られていたが、綿作地域が各地に広がるにつれて、その周辺でも木綿織りが盛んになった。

「店前売」と仕入

三井の呉服部門である三井越後屋(以下、越後屋)では、産地が広がるにつれ、西陣物などの高級品のみならず、地方で生産される絹織物や、より安価な木綿も大量に仕入れるようになる。例えば、加賀・丹後・越後・上州桐生・武蔵などで織られた絹織物、伊勢松坂・河内・播磨・尾張・三河・伯耆・出雲などの木綿、近江の布などである(→越後屋の主要な仕入地と仕入品)。特に伯耆の木綿は他の問屋に先んじて仕入を始め、店内でも尾州びしゅう木綿と称して産地の存在を秘匿していた。これらの仕入は京本店きょうほんだなの担当だが、関東の絹織物・木綿類は江戸向店えどむこうだな(→向店絵入木塗酒盃)が仕入と販売を行っていた。

現地の仕入拠点

越後屋の「店前売たなさきうり」と「現金掛げんきんかなし」の商法は、安価で仕入れた商品を薄利多売でさばくことで成し遂げられる。そのためには生産地や都市の問屋・仲買などの仲介業者を経ない仕入ルートを確保することが重要で、生産地からの商品の直接仕入を強化していた。

越後屋は、生産地での直接仕入の一つの手段として、現地に仕入拠点である「買宿かいやど」を置いた。これには現地の問屋・仲買・有力商人を任命していた。買宿には仕入資金を前貸しし、注文を送って商品を仕入れさせ、越後屋の江戸や大坂の営業店に送らせた。越後屋は買宿に対して、仕入れた荷物量に応じて手数料を支払っていた。現地の生産状況や価格などの情報を越後屋に伝えることも買宿の重要な任務だった。

越後屋の買宿は越後の十日町、信濃の上田や中野、上州の藤岡・桐生、武蔵の青梅おうめ・八王子、伯耆、出雲など重要な仕入地に多数置かれた。こうした仕入地の内、上州藤岡の諏訪神社には、仕入にあたった手代の名前で寄進した石燈籠や、越後屋が資金を出したと伝えられている神輿が残っている。越後屋は生産地と密接な関係を築きながら、良質かつ安価な商品を大量に仕入れるための努力をしていたのである。

八王子買方式目(はちおうじかいかたしきもく)(部分)
八王子買方式目(はちおうじかいかたしきもく)(部分)

買方式目とは、現地に仕入に赴く手代てだいへの注意事項を記したものであり、八王子買方式目は絹市のある八王子での絹織物仕入に関する規則である。越後屋では、寛政4年(1792)に八王子に仕入拠点(買宿かいやど)を置いて、織物の直接仕入を開始した。この史料もその前後に作成されたものと思われる。このような規則は多数作られており、武蔵では八王子と同じように青梅での仕入規則があり、他にも上野こうずけ、伯耆、近江などの規則類がある。

八王子買方式目(はちおうじかいかたしきもく)(部分)

八王子買方式目(はちおうじかいかたしきもく)(部分)

記事について

八王子買方式目は全16ヶ条あり、ここには3、4ヶ条目を載せた。3ヶ条目では遊女狂いはもちろん、遊芸も厳禁とすること、4ヶ条目では仕入金を他の目的に使わないことなどを定めており、手代としての心構えが書かれている。

本冊子の末尾には、歴代の担当手代の署名と派遣された年月日も記載されている。寛政5年(1795)から明治3年(1870)まで延べ100人余が八王子で活動していたことが確認できる。

縞見本
縞見本しまみほん

生産者が自身の織った縞柄の木綿を記録として残したもの。これは松坂木綿の見本である。この縞見本は文化ぶんか3年(1806)から作られたもので、三井文庫で昭和6年(1931)に受け入れたものである。

越後屋の主要な仕入地と仕入品
越後屋の主要な仕入地と仕入品
向店絵入木塗酒盃
向店絵入木塗酒盃むこうだなえいりきぬりしゅはい

江戸の仕入店でもあった江戸向店を描いた酒盃。向店は現在の日本橋三越本館の位置に建っていた。対面の江戸本店とセットで描かれることが多く、向店のみを描いた絵は珍しい。

 

14 呉服店3 競争と販売
16 両替店1 両替業と御用