江戸図の宝石
戦前戦中戦後を通じて編集営為がつづけられ、1959年上梓された『古板江戸図集成』(全5巻)を主導し、芦田伊人とともにその監修にあたった真山青果をして「三井文庫秘蔵の写本」と言わしめ、論考「神田のくづれ橋」の末尾に自論の最終典拠として示した古地図「江戸大絵図明暦」が、三井文庫に架蔵されている(C601-17)。
天地290、左右198、折寸24×32.5センチメートル。蓋裏に「三井家」および「南腸松本豊蔵」(新町三井家、昭和7年の印)の押印がある木箱に収められている。
色彩豊かな顔料を用いた手描図であり、寛永図系統のデフォルメが見られ統一的な算出はできないまでも、部分的には5千分の1を超える大縮尺図で、描き込まれた情報は比類なく詳細、描画はまさに華麗である。参謀本部陸軍部測量局が明治の10年代に作成した「五千分一東京図測量原図」を称して「地図の宝石」という言葉を使ったのは日本近世近代文学を専攻された故前田愛氏であったが、その顰に倣い私はこれを「江戸図の宝石」と言うことにしている。
なぜならば、華麗さもさることながら、この図の示す内容は、都市江戸の一大画期である明暦3年(1657)の大火前後の江戸市街であり、そこから遡ることのできる都市江戸に関する一次史料は、古地図も含めてきわめて稀なる状況が存在するからである。
この図はまた、「御茶ノ水」の湧水口(二口)が描かれている唯一の江戸図であり、かつ埋立初期の隅田川以東を描いた最古の地図で、天和2年(1682)に解体された安宅丸の姿をもその左岸に描いている、文字通り比類ない古地図なのである。
そうして、この図は出自等がようやく研究者によって推定されたばかりである。すなわち記載の武家名とその敬称などから、紀州藩徳川家がつくらせたものであること、また部分改描や貼付された付箋の書き込みから、明暦大火後の都市改造に利用されたことはとりあえず明白。当該資料は研究素材としていまだ汲めども尽きない情報の源なのである。
(東京経済大学客員教授)