城山荘日記
明治中期から昭和初期までの三井総領家(北家)第10代当主で、三井合名会社初代社長に就任した三井高棟(1857~1948)の伝記『三井八郎右衛門高棟傳』(1988年刊)の編纂にあたり、最も苦心したのは、財閥当主の人間像を描き出すことであった。所有と経営の分離の進行のなかで、いわば象徴的存在である三井財閥当主の人間像を示すことは大変難しい課題である。高棟の夫人苞子が几帳面な日記をつけ、その冊数は2百冊近くに及んだが、高棟自身が日記を書くことはなかった。家の執事的立場から書かれた『北三井家本邸日誌』などもあるが、当主の行動などは描かれていない。こうした家の管理的立場からの日記は別荘でも作成されていた。
高棟は、昭和8年に77歳で隠居し、翌年から昭和23年に亡くなるまで、住居を東京今井町の本邸から神奈川県大磯にある別荘城山荘に移して生活した。明治44年から昭和23年までの期間にわたって残されている『城山荘日記』も高棟自身によって記されたものではなく、執事的立場から書かれたものであるが、そこには晩年の高棟の姿がリアルに描かれている。高棟は全国の社寺から不要となった古材や礎石等を集め、建築資材として利用し、再生を図るという手法で、城山荘本館をはじめとする各種建物を造営したほか、国宝の茶室如庵を今井町本邸から城山荘に移築している。城山荘敷地内には窯場も設け、職人たちに陶器を製作させていた。
三井家や住友家の一族には文化や芸術に造詣が深い人物が多く現れたが、隠居して三井の事業を統括する重責から解放された晩年の高棟も、文化や芸術の世界に邁進していった。城山荘日記にこそ、高棟が追求した世界が最も示されているように思われる。なお、茶室如庵が犬山に移築された以外、城山荘の建築物は現存せず、その跡地は神奈川県立大磯城山公園となっている。
(東京経済大学名誉教授)