「抱屋敷絵図」で町屋敷を基礎とする 江戸町人地の特質がわかった
建築史の立場から、江戸という城下町、特にその町人地を具体的にあきらかにしたいと研究を始めたのであるが、最初はどのような史料があり、どのような方法があるのか、暗中模索であった。まず建物は残っていないし、その痕跡を示す考古学発掘もまだほとんど行われていなかった。江戸図と総称される絵図・地図があり、町割の概要はわかるのであるが、その実態がどのようなものかわからない。そのような時に、めぐり会えたのが「江戸抱屋敷絵図」(追697、冊子)であった。江戸町の中枢部分は京間60間(120メートル)四方の正方形街区で構成され、そこから個々の町屋敷は間口5間ほどで奥行きは20間とほぼ決まる。この町屋敷の中にどのような建物が建っているのかを示す絵図を「町屋敷図」と呼んだのであるが、江戸で三井が所有していた150余りの町屋敷を集成したこの文化期の史料によって、町屋敷内の表通りに面して地借商人の店舗が並び、裏には店借の住む裏店、いわゆる裏長屋が、共同の雪隠、芥溜、井戸の3点セットとともに狭い露地をはさんで並ぶという姿が町屋敷では一般的であることがあきらかになった。何より三井所有の町屋敷が日本橋・京橋という江戸町人地の中心だけではなく、周辺にも分布していたので、その地域、面する街路、入堀による違いと、沽券金という売買値段との関係がわかり、さらに同じく享保期の「抱屋敷絵図」(続1546、巻物)と比較することによって、18世紀初頭から19世紀はじめの変化の方向もあきらかになった。おおざっぱに言ってしまえば、この間に江戸町における地域間の格差が進み、町屋敷内では表と裏の格差がより明確になって、裏長屋の密集度がさらにすすんだということであった。
このような変化の方向は江戸に限らず、さらに都市に限らず江戸時代の一般的な社会変化と対応するのであるが、町屋敷という具体的な場における実際の変化としてとらえることができたことにより、近世都市江戸の特質をあきらかにすることができたと考えている。
(国立歴史民俗博物館/千葉大学工学部名誉教授)