三井と社会学の接点
三井文庫の名称を初めて聞いたのは、恩師・長谷川善計先生からであった。当時、先生は、長谷川善計・藤井勝・竹内隆夫・野崎敏郎『日本社会の基層構造』(法律文化社、1991)を出版、「株としての家」をキー概念に、日本の近代化や社会構造について研究されていた。
社会学の家・同族論や三井に関する文献を読み始めてみると、社会学の観点からの三井研究は、それほど多くないことがわかってきた。当時の社会学の家・同族論は、農家の家が中心で、商家については本家・分家・別家が経営上・生活上で一体化している中小商家が「原型」と考えられていた(「経営体・生活保障としての家」)。また、家族社会学は、家(「家父長制・親族としての家」)よりは、近現代の核家族や新しい家族が中心になっていた。
初めて三井文庫を訪れたのは、博士課程のときの平成8年(1996)であった。どのように三井にアプローチしたらよいか、全く先は見えなかったが、とにかく一次史料に触れてみなければという思いであった。
それから2年して出会ったのが、「中井三郎兵衛名跡相続願」(続717-4)である。内容を要約すれば、明和3年(1766)に死去した別家・中井三郎兵衛の名跡を、三郎兵衛の実母より乾家が譲り請け、実母の死後は、諸道具・衣類なども引き取り48年となっていたが、50回忌法事は名跡を定めて勤めたいので、乾家の姪のきんを養子とし婿をとり、三郎兵衛と名乗らせたいと、乾家が三井に願い出たものである。
この史料は、家が譲渡可能な対象物として存在し、内部成員の人間がいなくても存在するという、まさに「株としての家」の性格を示している。三井と自分が勉強してきた社会学がつながったような気がした。今でも、社会学の家・同族論や商家論を整理・検討する際や、社会学の観点から三井を分析・考察する際に、根拠や必要性などを提示する史料として、よく使わせていただいている。
(小山工業高等専門学校)