三井合名会社「北京特派員執務概要」
財閥資本による中国借款を研究テーマにしていた頃、三井文庫を頻繁に訪問し、様々な史料を閲覧・利用させていただいた。三井は貿易や投資活動を通じて早期から積極的に中国ビジネスを展開した財閥であった。日本の対中国借款は鉄道や鉱山が中心であったが、通信事業への供与も少なくなかった。借款供与を通じた中国通信事業への関与は、商品輸出拡大の経済的利益のみならず、周辺海域を含むアジア地域の軍事的・政治的支配拡大の要でもあったからである。三井物産は中国海軍部と1918年に対外通信施設である双橋無線電信台の建設資金として53万6000ポンドの借款供与契約を締結する。しかし、1921年に米国のフェデラル電信会社が中国交通部と上海に対外通信施設を建設するための借款契約を締結したことから、この両借款契約は1920年代前半期における日米対立の焦点となっていく。外交文書と国務省文書を対照しながら、この問題を第一次大戦後の日米関係のなかに位置付けて検討した際に、三井の動向を知るために利用したのが本稿表題とした史料である。この史料の存在を知ったのは、『三井文庫論叢』第15号(1981年)に掲載された春日豊氏の史料紹介であった。三井合名会社は1918年に北京特派員制度を設置し、三井財閥の代表として中国問題の調査・交渉を行わせる。また、その活動内容は逐次本社に報告された。同史料はそうした報告を半期ごとに簡略にまとめたものである。この史料を通じて三井が当該問題に対しどのように活動し、どう認識していたかを知ることができた。この検討を進めるなかで、当該問題が単なる借款供与をめぐる日米対立ではなく、第一次大戦期から大戦後における日米両国の中国政策をめぐる対立であったことが分かり、当初の想定を超えた広がりと深みを有した問題として描き出すことができた。利用したのはずいぶん以前になるが、その意味で同史料には他の三井文庫史料とは少し異なる感慨を個人的に有している。
(立教大学/日本植民地経済史)