大坂宇和島町雑喉屋三郎兵衛について
雑喉屋三郎兵衛は、明治維新後に絶家になった大坂両替商の一つである(広瀬宰平『半生物語』)。慶応元年(1866)に三郎兵衛が死去し、妻の婦美が相続したが、明治2年(1869)からは鳥取藩へ京都雑用金を毎月融資する組合からも外れ(鳥取藩政文書「扣帳」。『銭佐日記』)、経営難だったことは疑いない。雑喉屋自体の史料は残されていないが、雑喉屋が「浅野様御勝手向御不都合」という広島藩に関係する借金を三井に頼んで、断わられた史料が残る。それが「雑喉屋聞合書」(続508-6)で、「京江戸別通之控」(別345)にもほぼ同じ内容が写されているため、安政4年(1857)の作成と推定される。
雑喉屋三郎兵衛家は、元商売は味醂酒造仕込みで、蔵屋敷へ館入もする指折の家柄だった。経営が悪い中、大名貸で仕法替えによる差引の御断りもあり、ますます苦しくなった。当主人(41~2歳位)は病気で別荘へ出養生しており、妻は食野吉左衛門家の出身だが子息はいない。親類には食野の他に近江屋権兵衛・信濃屋勘兵衛・高池屋三郎兵衛があげられている。
店は店手代・若者・子供・召遣女・下男・下女が24~5人いる。重手代日勤幸八と次助が万事を取り仕切るが、幸八方手代の万作も蔵屋敷方の手助けをしている。幸八(42歳位、北堀江三丁目の居宅は家質差入)は商売が酒造仕込み、気性は大呑込みで催促を受けても苦にしない性格だが、病気で日勤はしていない。次助(34~5歳位)の気性は実躰で、4~5年前に借宅だが別家になった。
抱屋敷は御池通二丁目・下博労町・元伏見坂・日本橋一丁目・南堀江一丁目・幸町二丁目・漆町・周防町・関町に持つが、大体が島田八郎左衛門への抵当に入っており、5~6年以前に類焼した所は普請もできず板囲いのまま打ち捨てられている。更に、宇和島町の居宅は塩町の麦屋吉兵衛へ家質に入っており、借銀高も島田や加賀屋林兵衛らに680貫目余ある。
三井にとっては貸付先候補の家を独自の視点で調査し、分析を加えた詳細な資料だと言えよう。しかし、現在では絶家となり史料が残されていない有力両替商を知る貴重な手掛かりとなる史料の一つである。
(近世経済史)