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大牟田へ通った日々-私の一点『三井鉱山五十年史稿』-

下谷 政弘
大牟田へ通った日々-私の一点『三井鉱山五十年史稿』-
三井鉱山五十年史稿巻十三化学工業㈠(鉱50稿14)
大牟田へ通った日々-私の一点『三井鉱山五十年史稿』-

戦前日本の大企業の事業多角化の主要な源泉は鉱山の中にあった。とくに財閥系の化学会社の出自の多くは鉱山業に求められる。三井系の化学関連の諸企業もまた、その三井鉱山(三池炭礦)を母胎として生まれてきた。

まだ若かりし頃のこと、私は『日本化学工業史論』(1982年)の一節(石炭化学工業の展開)を書くために何度か大牟田(当時は三井東圧化学大牟田工業所)を訪れた。三井鉱山の総合経営としての副産物利用から化学会社が誕生する歴史を追いかけるためのヒアリング、そして資料探しであった。大牟田では、戦前の事情にくわしい会社OBの方々を探しだし、聞き取りすることができた。そしてこの間、私の研究を導いてくれた「三井文庫史料私の一点」は『三井鉱山五十年史稿』(1944年)であった。ガリ版刷りの同書の、とくに化学工業編、第一部石炭タール工業、第二部アンモニア工業を繰り返し読んだ(鉱50稿14~15)。

それは、タールの有効利用から合成染料や農医薬品が作られる中で、三井鉱山の三池焦煤工場が三池染料工業所へ、さらには三井化学工業へと独立転化していくプロセスであった。また、コークス炉廃ガスを利用してアンモニア合成や硫安製造へと進出した三池窒素工業、あるいは、のちに同じくコークスそのものから進出した東洋高圧工業などが生まれてくるドラマであった。前者はいわゆる精密化学(finechemicals)であり、後者のアンモニア合成は高温・高圧・触媒の三要素を併せもつ近代的な化学工業への参入を意味していた。

以上はすべて三池炭を基軸とする大牟田石炭コンビナートの形成の一環であり、そのオリジナルな構想は明治末年の団琢磨にあったという指摘もある(由井常彦「団琢磨と大牟田石炭コンビナートの構想」『三井文庫論叢』第48号)。いずれにせよ、こうして三井財閥コンツェルンという大宇宙の内部において、化学会社などの子会社を擁する「三井鉱山コンツェルン」という小宇宙が形成されはじめたのである。

(京都大学名誉教授/住友史料館館長/日本企業史)

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三井鉱山五十年史稿巻十三化学工業㈠(鉱50稿14)
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