「陰徳性名録」をめぐって
三井文庫には、おそらく1980年代から何度となくお世話になっている。利用させていただいた史料と、それに関わる思い出も数々あるが、今回は最近取り組んでいる作業に関わる史料を一点紹介させていただきたい。
筆者は、最近、幕末に刊行された『仁風集覧』という書物の復刻に関わらせていただいた(『「仁風」史料集成』近現代資料刊行会、2016年)。同書は、幕末の米価高騰により、京都で多くの困窮者が出たことに対して、私財を投じて救済活動を行った町人らのリストである。この種の書物は享保の飢饉の際に作成された『仁風一覧』に始まり、『仁風便覧』、「仁風扇」を経て、『仁風集覧』に至る。いうまでもなく三井家は、それぞれの救済において有力な出資者となっていた。小文では、その調査の過程で牧知宏氏にご教示いただいた「陰徳性名録」(G500-17)を取り上げることにする。
「陰徳性名録」(以下「陰徳」と略す)は、その名の通り、私財を投じて救済活動を行った町人らのリストであり、対象時期も『仁風集覧』と重なり合う。また、拠出者の一部については、町奉行所が町触の形で市中に公表していることがわかっているが、速報性を重視したためか、『仁風集覧』に比べると人名に誤記が多かった。そこで、「陰徳」、『仁風集覧』、町触の三者を照合してみると、「陰徳」は町触の誤記を踏襲しており、町触を元に作成されたものであることがうかがえる。それでは、「陰徳」は何のために作成されたのであろうか。
「陰徳」に記載された町人の大半は7月の町触に記載されていたが、末尾の3件は8月12日の町触で初めて公表されたものである。すなわち、「質屋仲ケ間」「材木仲ケ間」「大仏八王寺丁泉屋房吉・みの屋清三郎・尾張や新兵ヘ」は7月段階では拠出が知られていなかった人々である。そうしたことから、ここでは、「八王寺丁」(これも「八王子町」の誤記、七条新地の一部)の3人の関係者が宣伝のために「陰徳」発行を企てたとの仮説を提示しておきたい。いかがであろうか。
(同志社大学)