情報源としての三池鉱業所「往復書類」
三井鉱山資料のなかに三池鉱業所秘書課が保存していた本店、各課、各所との往復書類が、明治20年代から昭和戦前期にかけて70点ほど残っている(三池185~258)。主に職員の採用・人事に関する史料をまとめたものであるが、冊子によっては、他炭鉱の動向に関する記録も数多く含まれている。
たとえば、「本支店及諸向往復」大正3年分(三池207)のなかに、大正3年12月15日午前9時45分前後に発生した三菱方城炭鉱の炭じん爆発事故に際して、九州炭礦事務所長が田川炭礦長宛に打電したと思われる電報案が綴じられている(九州炭礦事務所は三池、田川、山野の各炭鉱を監督する組織で、三池炭鉱に所在する)。同日午後3時35分に発信予定の案文は次のとおり。
方城炭坑応援ノ為メ当方救命器及救命隊派遣ノ必要アラハ直ニ繰合セ出発サスル方城炭坑ヘ見舞旁相談頼ム
先行研究によれば、この爆発事故による犠牲者は700名弱にのぼり、田川郡に位置する方城炭鉱から監督官庁(福岡鉱務署)に電報が届いたのは同日正午、方城炭鉱が決死隊を組織して入坑を試みたのは午後2時過ぎ頃であった。監督官庁が察知した3時間半後には、すでに事故発生の第一報をうけていた三池炭鉱が、救命隊の派遣を検討していたことが分かる。三池炭鉱は、前年に発生した北炭夕張での坑内火災に際し、救命器を装備した応援部隊を出張させており、その経験を活かして、三菱方城に対しても救護活動など何らかの支援を申し出ようとしたのであろう。結局、救命隊派遣は見送られたようであるが、この発電案からは「空前の大惨事」に直面した際の緊迫した空気が伝わってくる。
ここで紹介した炭鉱災害にまつわる記録は、秘書課の往復書類に含まれている史料の一断片にすぎず、その他にも鉱夫の募集や中小炭鉱の調査に関する書信、鉱夫の同盟罷業に関する報告書などが雑多に埋もれている。件名目録のない冊子が大半を占めているため、目的の史料にたどりつくには苦労を要するが、思いがけず新たな発見にめぐりあうという喜びも得られる。石炭輸送ばかり研究してきた私にとって、秘書課「往復書類」は炭鉱への興味をかきたて、視野を大きく広げてくれる史料群である。
(三井文庫主任研究員)