写真資料から改めて学んだ研究の基本姿勢
今から15年ほど前、『福岡県史通史編近代産業経済㈠』の刊行を控え、私は自治体史編纂事務局のスタッフとして原稿の校正や掲載写真の選定などに追われていた。その過程で三井文庫には度々お世話になった。
文庫スタッフの方々からアドバイスを頂戴しつつ、「三井鉱山五十年史写真集第十二巻」(港務所目黒研究所目黒砥石)からとある一点の写真を選び、掲載させていただいた(前掲『福岡県史』600頁)。選定の理由は、写真のキャプションに「井上伯進水式来臨明治四十一年三月十四日」とあり、井上馨を中心に団琢磨や牧田環ら三井関係者のほか、永江純一、貝島太助・太市父子ら地元有力者が名前入りで確認できたためであった。ところが、このキャプションが、後日、私に大きな反省を強いることとなった。なぜならば、『貝島太助伝』などの記述によれば、太市は明治40年8月から兄・健次とともに遊学のため渡米し、翌41年夏からは英国に渡り、42年9月に帰朝している。その間、一時帰国したという記述はない。つまり、前述の進水式時に日本にはいないはずの太市が、写真には写っていることになる。
この矛盾に気づいたのは、刊行後、数年経って『福岡県史』を読み返していた時であった。自分自身のミスだと思い、撮影資料を再確認した。太市は目鼻立ちがはっきりとした、いわゆる「ハンサム」でわかりやすい。しかし、写真とキャプションを何度見直しても、やはり太市と判断して間違いないように思われる。結局、キャプションの年月日が間違っているのか、それとも太市の履歴に間違いがあるのか、いまもって私自身の宿題として残ったままである。
しかし、それ以上に問題とされるべきことは、歴史研究に携わる立場にある者として、他の文献資料と付き合わせて資料批判を尽くさなかった私自身の姿勢であった。「井上伯進水式来臨」の写真を見るたび、反省の思いと研究の基本姿勢とを改めて認識させられるのである。
(九州産業大学商学部)