古地図資料の宝庫
2015年7月に、積年の課題であった『近世刊行大坂図集成』を編著として創元社から上梓することができた。「刊行」という言葉が示すように、巷には100枚以上の図が出回っていたと考えられる。しかし、役目を終えると、捨てられるか、使用と経年による劣化が進み状態は良くはないのが、地図の宿命である。ただ、図版として用いるには、状態が良い図が望まれるところであり、三井文庫所蔵図については20数点の掲載許可をうけた。この恩恵に浴したことを感謝しておきたい。これが古地図資料の宝庫たる所以である。
すでに、別件の地図調査にあわせて、三井文庫には大坂図を何点か閲覧させていただいていたが、前掲書を編むに際しての悉皆調査に赴いてくれた、上杉和央さん(京都府立大学)と島本多敬さん(京都府立大学院生)に調査データをみせてもらったところ、初見の図に遭遇した。年記が「元禄己巳載六月吉祥日」、内題を「大坂図鑑綱目新板」(C608-3)とする図である。元禄己巳載は元禄2年(1689)、それまで京都で行われていた大坂図の刊行が、地元大坂の板元によって担われていく時期である。構図や凡例などを見る限りでは、同時代の刊行図である「増補大坂図(甲子大坂図)」(1684年)や「辰歳増補大坂図」(1688年)-いずれも初版年-に倣っているのは間違いない。刊記に「堂島新地幷九条之新地、其外大坂寺社名所旧跡を相改」める、とあるのが開板の意図するところである。注目したいのは、それまでの刊行大坂図にはみられないほどの地誌情報を図の余白部分に満載していることであろう。情報の出所は見出せていないが、年記の横にある百川利兵衛なる人物が鍵を握っていると考えられる。いずれ明らかにできればと思う。縷々述べたが、稀覯図であることは間違いない。これが古地図資料の宝庫たる二つ目の所以である。
今後は、三つ目の所以を求めて、古地図資料の調査をさせて頂ければと考えている。
(神戸市立博物館学芸課長)