三井物産による灘酒の一手販売について
私の取り上げる三井文庫所蔵史料の一点は、三井物産文書課「廻議綴」(物産2388)である。三井物産の意思決定としては取締役会よりも重要度の低い案件が綴られた史料である「廻議綴」には、両大戦間期に同社が結んだ数多くの一手販売契約関連書類が含まれており、それらからは1920年代以降に国内市場への積極的進出を図った同社の姿を読み取ることができる。
昭和6年9月16日に提出された「一、松尾仁兵衛商店ト同店醸造淸酒一手販売契約締結ノ事営業部長伺出右ノ件許可致度事」もまた、三井物産が淸酒の一手販売に乗り出した際の関係文書である。松尾家は、五郷・魚崎にて18世紀初頭より淸酒醸造を始め、「金正宗」や「神亀」などの銘柄酒で名をはせていた。1920年代後半以降の不況下で、同商店は減産に舵を切る一方、東京方面への販路を拡げながら銘柄酒の増販を図ったが、度重なる返品や代金回収の長期化といった悪条件に苦しむ。上記の契約はそうした状況下で締結された。
管見の限り三井文庫史料の中に契約書そのものを見出すことはできなかったが、松尾家側に残された原本によれば、商品への責任や販売責任数量の負担、「金正宗」など商標の権利所在、口銭等の取り決めがなされ、物産には極めてリスクの低い契約内容であった。しかしその後、松尾家からの申し出を受け入れる形で昭和8年4月に同契約は解除され、一度は物産に譲渡された商標も返還されている。三井物産による特約店組織化の不調が松尾家の期待外だったことなども考えられるが、契約解除の真相は未だ明らかではない。
三井高利の父高俊は松阪で酒の商いをしていたとされ、明治5年には三越得右衛門が西宮で酒造業、東京では下り酒問屋を始めるなど、三井の事業と酒との関わりは浅くない。今回私の取り上げた史料もまた、その中に位置づけられる貴重な一点といえよう。
(兵庫県立大学)