「江戸抱屋敷絵図」
この「江戸抱屋敷絵図」(追697)は、三井が文化4年に江戸で所持した抱屋敷を書き上げた絵図史料である。江戸の三井では、元禄4年以降、御金蔵御為替御用・二条大津払米代銀御為替御用・上野御門主様貸付御用・銅座掛屋御用など、幕府の御用や上野名目金と関わるために大量の町屋敷を購入し、これらを担保(上げ家質)として幕末まで維持・管理した(大元方直請「二十六ヶ所」、江戸両替店請切「四十ヶ所」と総称。今井典子氏「史料紹介・大元方「家有帳」」(『三井文庫論叢』第8号、1974年)を参照)。また、18世紀末以降、沽券状引当の名目金貸付に伴う流地が数多くあり、これらは江戸両替店持地面として管理された。天明3年以降幕末までに、その累計は82ヶ所に達し、絶えず流れ込みと売却を繰り返している(この他に京都両替店持3ヶ所がある)。こうして江戸の抱屋敷総数は18世紀末以降、ほぼ80~90ヶ所にも及んだ。この内、「二十六ヶ所」「四十ヶ所」について見ると、そのほとんどは江戸町方中心部に分布している。本史料によれば、三井の各店舗用地(11ヶ所)を除くと、これらの町屋敷には、地借315軒、店借764軒(内、裏店614軒)、貸土蔵(71棟)が分布することが知られる。三井は個々の町屋敷を管理するために家守を置き、多額の地代・店賃・蔵敷を収取した(町屋敷経営)。かくて三井は、計1000軒、居住者数はおそらく数千人規模に達するであろう江戸中心部の地借・店借層に、地主として直接相対することになったのである(吉田「施行と其日稼の者」(吉田『近世巨大都市の社会構造』東京大学出版会、1991年、収録)を参照)。本図は、町屋敷という、巨大都市江戸の社会=空間の基底を織りなす「細胞」の実態を克明に描写する。そして、江戸の三井が市中社会との間にどのような関係を取り結び、またそれによって拘束されたのかが、ここにはリアルに示されているのである。
(近世社会史)