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『職員録』から見る仏領インドシナ三井物産の動向

湯山 英子
『職員録』から見る仏領インドシナ三井物産の動向
三井物産株式会社職員録(物産51-2~17、32~42)
『職員録』から見る仏領インドシナ三井物産の動向
三井物産株式会社職員録(物産51-32~42)

仏領インドシナの三井物産は、長い間香港支店が管轄していたため営業報告書などの僅かな記述からではその活動を明らかにするには限界があるものの、人員配置から追うことは可能である。方法としては、『職員録』や『社報』『営業報告書』などから人員数と名前を拾っていくことになる。一方で、別の資料との照らし合わせが必要であり、たとえば職員の出身大学の卒業生名簿や同窓会誌などがそうである。

特に『三井物産株式会社員録』(物産50-19)『同職員録』(物産51-2~42)は、人の動きを追うには最も基本的な資料となる。仏領インドシナに配置された職員の個人名が欠けることなく記録されていることは貴重であろう。三井物産が多くの人材から成り立っていることを改めて実感できる資料だと思う。

三井物産が仏領インドシナに人員を配置したのは、1907年の香港支店からの出張員が最初であり、その後中断・再開はあったものの1940年の北部仏印進駐から一気に人員も取引高も増加することになる。通常職員が数年で異動するが、なかでも馬渡嘉八という職員は、石炭の産地であるホンゲイを皮切りに長年に渡り駐在した(1929~1943年)。これは、現地の石炭に精通した人材を確保したということだろう。また、最も人員が多かった時期の西貢(サイゴン)支店に長谷川肇が確認できる(1942年~終戦)。実は、彼の海外前任地は台湾であり、父・長谷川清(第18代総督1940年~1944年)が就任する前の1938年から台湾三井物産に勤務していた。『職員録』によると、サイゴンでは米穀を担当し、戦後も一貫して米穀畑にいた(親族へのインタビュー)。長谷川肇の出身である慶応義塾大学の同窓会誌『三田評論』(第537号、1942年9月)によると、サイゴン三井物産内に西貢三田会事務所(市ノ瀬一次気付)があったことがわかる。人を追うには『職員録』が基本資料となり、他の資料と照らし合わせることで、仏領インドシナにおける三井物産および職員の動向が見えてくる。

(北海道大学大学院経済学研究院 地域経済経営ネットワーク研究センター研究員)

『職員録』から見る仏領インドシナ三井物産の動向
三井物産株式会社職員録(物産51-2~17、32~42)
『職員録』から見る仏領インドシナ三井物産の動向
三井物産株式会社職員録(物産51-32~42)