日清戦後の中国市場調査報告からみえるもの -藤瀬政次郎『清国新開港場視察復命書』明治二九年-
藤瀬は、明治18年、商法講習所卒業後、三井物産に入社、上海支店、ロンドン支店等を経、明治36年本店参事、大正7年常務取締役を占めた人物である。上海支店長時には宮崎滔天らと親交を結び、1911年の辛亥革命に際しては、孫文らを密かに支援し、漢治萍公使を日華合弁にする条件で、三井物産から300万の融資を行うなど、日本資本の中国進出や中国革命の動向にも関与した人物であった。この藤瀬が、日清戦争直後に上海・重慶間の長江流域開港場を視察した報告書が本資料である。同じ時期には、山本条太郎『占領地及朝鮮平安道商況視察復命書』(明治28年、物産402)、石田清直『芝罘商業事情一班』(明治31年、物産412)さらには益田孝の台湾・香港・上海各支店の視察報告『台・香・上出張復命書』(明治31年、物産409)等、相次いで中国・朝鮮を中心とした市場状況や商慣行の施設調査が実施されている。
これらの調査報告においては、中国市場の実情や商慣行を視察し、華商ネットワークのあり方や、多様な機能をもつ商人組織や独自の信用制度等について、ある種の驚きをもって報告書を記している。そこでは、日本人が「清国人ヲ見ル事殆ンド惰牛ノ如」き風潮のなかで、きわめてリアルに中国商の状況を観察しており、①外国商が掌握していた各地開港場の貿易が中国商の手に移っていること、②中国進出欧米商がいずれも中国人に事務を委ね、彼ら(買弁)に利益を握られていること、③日本の市場は隣国中国にあり、中国商に対抗し「我商人タル者進ンデ彼地ニ入」るべきこと、そのため「支那語研究ノ必要ナル事論ナキ」と中国語の修得が必要であること等を述べている。
こうした観察は石田清直も同様で、「商界ニ於ケル一大敵国タル清商ヲ軽視セズ…清人ノ用フベキモノハ之ヲ用ヒ養成スベキモノハ養成」し、貿易の基礎を固めることを主張している(石田前掲)。これらの認識は、益田孝による「買弁」廃止と「清国商業見習生」制度に具現化する(益田前掲)。益田が「大成功」と自賛する「買弁」廃止等の商略も(『自叙益田孝翁伝』)、益田のみに属するのではなく、藤瀬らの市場認識を基礎としたものといえる。こうしたリアルな認識は、以後、三井物産の総合商社としての発展も規定していった。
(和光大学名誉教授)