三井物産が廃止した買弁の実態
三井物産が日清戦争後の対中国(清国)ビジネスの拡大に際して、1899年から順次、在中国各支店で買弁制度を廃止したことは、栂井義雄氏や山下直登氏などの研究によって広く知られている。この買弁制度の廃止にともなう手続きが『理事会議案』(物産121)に残されていること自体は、山村睦夫氏によって既に明らかにされていた。
この『理事会議案』(物産121)に収録されている、1899(明治32)年7月16日に提出された「上海支店買弁解雇並手当支給ノ件」には、「買弁制ハ漸次廃止ノ方針」に従って「買弁金仰生以下九名解雇」するとともに、解雇手当を支給することが議案となっていた。議案には付属資料として、「解雇手当金表」や解雇手当金の「計算書」などが含まれている。
この「解雇手当金表」には、役名、姓名、給料、勤続年月、手当金(両)、同日本円概算高が記載されており、この記載内容は大変興味深い。給料の欄に記載があるのは、買弁50ドル、副買弁10ドル、ボーイのうち最も勤続年月の長い1名3ドルの3名だけで、残りの7名(集金人2名、勘定方2名、支払人1名、ボーイ1名)には給与欄の記載が無い。これは備考欄に「給料記載ナキハ買弁ニ於テ支給」とあり、買弁に支払われていた給料は実際にはこの7名分の給料の合計額であり、買弁には別に口銭(取引手数料)が支払われていた。
これは内田直作氏が「買弁の使用せる支那人使用人の給料等に充当せられる性質のもの」と指摘する、典型的な買弁の給料と同様であった。買弁が副買弁や集金人、勘定方などの集団を組織する点も、根岸佶氏の研究成果と一致している。
『理事会議案』(物産121)に残された資料によって、三井物産が廃止した買弁が、内田氏や根岸氏が分析した、ジャーディン・マセソン商会などで雇用されていた典型的な買弁と類似性が高いことが明らかになった。三井物産が廃止した買弁の詳細は必ずしも明らかでなく、三井文庫所蔵の史料は買弁の実態を浮き彫りにしてくれる貴重な存在である。
(横浜市立大学)