「城山荘日記」が伝える高棟の遺産
昭和恐慌下財閥糾弾が続く中、1933年3月、三井八郎右衞門高棟は、三井総帥の地位を嫡子高公に譲り隠居した。高棟は大磯の別荘・城山荘を引退の住処と定めて新館建築に着手、各地から集めた社寺の古材を使い、木造茅葺き三階建、総延五百坪余の城山荘本館を完成させた。広大な敷地の造園築庭も高棟の構想に基づいて進められ、永楽善五郎を招いた窯場「城山窯」が築かれ、35年秋新城山荘は落成した。さらに37年東京の本邸から国宝如庵が移築されている。
「城山荘日記」は北家の家職(執事)が記した当主の滞在日誌で、1911年8月から48年3月まで書き継がれているが、本格的記載が始まるのは高棟引退後の33年4月からである。高棟夫妻の日常の動静を中心に、来訪者の氏名・用向き、到来品の書上げ、電話受信記録、職員の出退、使用人の採用退職、地元商人職方の出入りなど多くの出来事が記録されている。建築や造園の現場視察が高棟の日課のごとくになっていたことが窺える。
出入りの商人職人らがふえ地域の住民とかかわる記事が多くなる。35年2月初午の折、荘内の稲荷社前で高棟夫妻が集まった子供たちにお菓子を配っている。近隣集落195戸に予め引換券を渡してあったという。神社例祭の神輿が本館前で練る、迎えた夫妻が御初穂料を包むという記録もある。地域社会と交流を深めつつ戦時下を過し、終戦間近か本土決戦部隊が荘内に駐屯、陣地構築が始まっても夫妻は城山荘に留まった。戦後財閥解体が進む中、46年苞子夫人に先立たれた高棟は48年(昭和23)2月城山荘で生涯を終えた。
時を経て城山荘は売却され、高棟が意を凝らした建造物も全て無くなったが、同地は、住民の運動によって1987年神奈川県立城山公園となった。本館跡にある公園展望台屋根には、かつて本館塔屋上にあったと同じように、海に向かって立つ鶴の像が据えられている。東側に下った如庵の跡地には大磯町資料館が建てられている。同館入口の長楕円形の屋根は城山荘表玄関の車寄せを原型にしている(特別展型録『城山荘と城山窯』大磯町資料館1990年)。「城山荘日記」に記録された高棟の遺産は今、地域社会そして住民に伝えられている。
(横浜国立大学名誉教授)