「宗竺遺書」との関わり
「宗竺遺書」は江戸期三井家に関する基本史料の一つで、かつてはごく限られた関係者以外は見ることも出来なかったが、現在は『三井事業史』資料編一(1973年)で読むことが出来る。この「宗竺遺書」で重要なのは三井家とその事業が「宗寿居士兄弟一致」の原則で束ねられていることだろう。宗寿居士とは三井高利で、宗竺はその長男高平である。
三井文庫が戸越から新井薬師に移転してやっと落ち着いて史料を読めるようになって最初に手をつけたのが宗竺遺書がらみであった。『三井文庫論叢』を見ても、3号に三井礼子・山口栄蔵両氏の「『宗寿居士古遺言』と『宗竺遺書』」という史料紹介が、4号には中井信彦氏の「共同体結合の契機としての『血縁』と『支配』」という論文が収録されている。こうした文庫の先輩たちのお仕事の影響を受けながら筆者が立てたテーマは、幕末維新期を視野に入れながら、安永3年におこった「店々持分一件」についてであった。この事件を取り上げたのは、「宗竺遺書」の兄弟一致の原則が揺らいだことであるが、それを店々の変動の状況と関わらせてみるものであった。論叢2号(1968年)に載った「幕末・維新期における三井家大元方の存在形態」という生硬で未熟な論文はその検討の一端を記したものである。
その後、この論文の延長線上で改めて「宗竺遺書」との関わりを論じたのが「三野村利左衛門の時代」である(『幕末維新期の都市と経済』第3部7章補論2007年)。ここでは幕末維新期の経営上の困難な状況のなかで、三野村利左衛門が江戸期の同苗(兄弟)一致から「主従持合の身代」に転換していると言い切っていることである。この関係史料は『三井事業史』資料編二(1977年)に収録されている。そこには「宗竺遺書」の「兄弟一致」の精神からの脱却が明らかで、近世を通じての変動の一つの到達点を示しているように思えた。そう感じたとき、近世史の研究者として重く、その意味を深く考えさせられたことを記憶している。
(日本近世史)